堕天王の逝く道

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zoom RSS 幽世喫茶『姉さんの遺言』

<<   作成日時 : 2013/07/05 20:52   >>

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幽世喫茶の第十一作目となります。

幽世喫茶については、『幽世喫茶目録』をご覧ください。


今回のお話のあらすじ
散歩をしていた兎渡子は、幽霊の菜桜と出会う。彼女は、妹にどうしても伝えたい言葉があると言う。兎渡子は、菜桜に押される形で、知り合いの付喪神玖史(くし)に頼み、人型を用意してやることに。それがとんでもない事態を引き起こす事になる。



   姉さんの遺言

 燦々と照りつける太陽の季節。夏真っ盛り。乙衣(おとぎぬ)兎渡子(ととこ)は、額に汗をかきつつ、車が一台通れるぐらいの幅しかない細い道を歩いていた。兎渡子は、幽世(かくりよ)喫茶という喫茶店を経営している。その幽世喫茶は、山の中腹に建てられており、兎渡子が今歩いている住宅街は、その山の麓(ふもと)にあたる。
 普段は引き籠っている兎渡子。彼女が何故、太陽が照りつける昼間に歩いているのか。引き籠って、食っては寝ての生活で、当たり前のように体重が増加したからである。つまり、兎渡子はダイエットのために歩いているのだ。
 今日はその初日。どこまでが適度な時間と距離なのか、それが分からずダラダラと歩いている内に、麓の住宅街まで降りて来てしまっていた。
「帰りは……バスを使わなきゃ……」
 とても、歩いて戻る気力なんてなかった。
「ちょっと、オセロットの所で休ませてもらおう」
 兎渡子は見慣れた道に出てきたため、目的地を明確にした。オセロットとは、幽世喫茶に縁(ゆかり)のある――『元』破壊神である。幽世喫茶に運び込まれた生贄の壺から化生(けしょう)し、兎渡子の淹れた幽世珈琲を飲用。突然農業に目覚め、老夫婦の孫という肩書で、今は生活している。ちなみに、兎渡子の淹れた珈琲は『幽世珈琲』と呼ばれ、記憶の復元を可能にしていると言われている。ただ、いまだに効果の全容ははっきりと分かっていない。
 少し広い道路に出る。車の通りは、全くないというわけではない。陽炎立ち上るアスファルトが、行き先をゆらゆらと歪ませている。そんな折である。下を見て歩いていた兎渡子は、花やお菓子、飲み物がお供えされているのに気付く。視線を上げると、家を囲う塀にぽっかり穴が開いており、奥の家屋が見通せるようになっていた。
「……車でも突っ込んだの?」
 あまり関心を示さず、歩き出そうとしたその時、兎渡子は何気なくさらに上を見た。まだ無事な部分の塀の上。そこに一人の少女が座っており、真っ青な空を見上げていた。年の頃は、高校生ぐらいだろうか。何故塀の上に座っているのか? そんな疑問が過った時、少女の姿がうっすらと透けていることに気付いた。それは、生きた人の姿ではない。慌てて視線を逸らそうとしたその時、少女が急に兎渡子の方に顔を向けた。視線が合ってしまう。
「見えているの?」
 すっと兎渡子は視線を逸らした。
「さて、帰ってアトリエの続きでもしよう。今日こそ隠しボスを倒す」
「絶対に見えている!」
 兎渡子が背を向けた瞬間、少女がその背中に抱き付いてきた。兎渡子の体は、金縛りにあう。
「あうっ! み、見えてませんし」
「今、私の言葉を反復した! 私と話をしろ! 呪うぞ! 具体的にどうやったら呪えるか分からないけど、私にだって毎晩枕を引っ繰り返すぐらいのポルターガイストは起こせるんだから!」
「だから、見えてないって……!」
 兎渡子はなんとか体を動かそうとする。その最中、ぞわりとした嫌な感じがした。少女がうっすらと纏う気配。それがなんなのか、兎渡子には分かった。怨念。生きている人間を羨む、死者特有の気配。
(この子……禍(まが)りかけている)
 亡くなった人は、あの世へ行く。しかし、時々その力に抗って、現世に残り続ける場合がある。それが幽霊である。幽霊も最初の頃は人の形を保っているが、肉体を失った魂は摩耗していき、人らしさが失われていく。失われていく中、もっとも望むことが肥大化していき、それしか考えられなくなる。それが悪霊である。その様を、除霊屋の言葉で『禍る』と表現する。
 兎渡子は、抵抗するのを止めた。
「分かった。話ぐらいは聞いてあげるから離れて。重いし、寒いし、疲れるから」
 向き直ると、少女は再び塀の上に戻って行った。どうやらそこが一番落ち着くらしい。
「良かった。見える人がいて。もう、絶対に詰んだわー、と思っていた所だったのよ。お姉さんは、ゴーストバスターとかそんなの?」
「また偉く古い言い方ね。私は別にマシュマロのお化けを相手にしたりはしないし。それに私は、今はただの一般人よ。例えるなら、夏目くんみたいな感じ」
「友人帳……」
「そんな特殊なアイテムは持っていません。それよりも、話を聞いてほしいのでしょ? 聞くだけなら聞いてあげる。ただ、出来るだけ簡略して話してね。暑いんだから」
「お姉さんには、『幽霊さん可愛そう』とか、そんな気持ちはないんですか?」
「面倒臭いと思っているだけよ」
「まったく容赦がない!」
 とてもおどけた性格であるが、そこに不思議な違和感がある。兎渡子は、そう思った。

 兎渡子は、暗い表情でとあるお店の前に立っていた。『ガラクタ堂』と書かれた、古い木造家屋。商店街の一角に小さく佇む、開いているのかどうかも分からない、そんなお店である。
 昨日の事を思い出す。
 幽霊の名前は、入江菜桜。交通事故で亡くなったとの事。そんな彼女は、一つの願いを口にした。
「妹に伝えたいことがあるの」
 伝えるだけならいくらでも方法があると掲示するも、ことごとく拒否された。どうしても直接伝えたい言葉、とのこと。兎渡子なら何とかしてくれる、と勝手に思い込んだ菜桜は、兎渡子を拝み、土下座し、終いには呪ってやると連呼した。結局、兎渡子は折れてしまった。
「私にも姉がいるし……はぁ、こういう事じゃまた蓮華(れんげ)に怒られる。気が引けるな。でもあのままじゃ、近いうちに悪霊化して、除霊屋に見つかって強制成仏よね」
 除霊屋。『この世の理(ことわり)から外れしモノたちを調整する者たち』の総称である。簡単に言えば、『妖(あやかし)や悪霊を殴ってなんぼ』の仕事。彼らは、この世に彷徨っている霊を発見すると、『強制成仏』という方法を取る。
 幽霊とは、成仏しようとする力に対して抵抗して、現世に残っている。つまり、その力が無くなるまで痛めつければ、どんな恨みや辛(つら)みがあろうとも、成仏してしまう。それを『強制成仏』という。この方法が、もっとも効率的でコストが安いのだ。それは亡くなった人を、人とも思わない所業である。
 大きな溜息を吐いた後、渋々といった様子でお店の中へと入る。薄暗い店内。先が見通せないほど、色々なものが積み重なっており、その様はまるで倉庫である。兎渡子はぐるりと周りを見渡す。
「玖史(くし)、いる?」
「呼ばれて飛び出て、ですね」
「うわっ! びっくりした……」
 兎渡子のすぐ左横から、一抱えもある壺を片手で持ち上げながら、一人の少女が姿を現す。着物を身にまとった彼女の名は、玖史。人のように見えるが、人ではない。彼女は、付喪神(つくもがみ)。古い物に魂が宿り、モノと化した存在。玖史は、その付喪神の集合体である。故に、『玖史』。九つの歴史を内包した存在。九つは、その数通りの意味ではなく、『たくさん』という意味である。
「兎渡子様がわたくしの店にお越しになるなんて、珍しいですね。今日は、何をお求めでしょう?」
 壺を両手で持ち直し、首を僅かに左に傾ける。
「あぁ……うん、ちょっとね」
 歯切れの悪い兎渡子。玖史は、不思議そうにしている。
「長いお話になりそうですね。お茶を淹れましょう。奥にどうぞ」
 座敷に通され、丸い卓袱台の上に緑茶が用意される。兎渡子は礼を言ってから、緑茶に口を付けた。それから、昨日出会った菜桜の事について話をした。
「それで、直接会って伝えたい、と彼女が言って聞かなくて……」
「依代(よりしろ)を用意しろ、と?」
 兎渡子は、玖史の顔色を窺いつつ、『まぁ、そういうことかな』と曖昧に濁す。
「兎渡子様、それが重大な規約違反だということは、承知していますよね?」
 ここでいう規約は、除霊屋が敷いた規約である。
「分かっている。でも、放っておけなくて」
 そこまで話してから、兎渡子は勢いよく立ち上がった。
「ごめん! やっぱりいいわ。自分で何とかする」
「待ってください」
 出て行こうとした兎渡子を静かに呼び止める。
「兎渡子様、別に遠慮する必要はありません。この玖史に、一言『頼む』と言って頂けるだけで十分です」
 玖史は、己の左胸に右手を添えた。この奇妙な会話には、玖史が『付喪神』であることが関係している。
 付喪神とは、道具の神。その本質は、人に似ていても道具なのだ。人に使われ、頼られる事を最上の喜びとする。兎渡子は、玖史が断れない事を知りながら、頼みをしようとする自分を許せなくなったのだ。
「ただ、一つだけ。責任は、道具にはありません。いつでも、使うものが負うものです」
 兎渡子は、しばらく玖史を見下ろしていた。
「……ごめん」
 兎渡子は深く頭を下げた。

 人型(ひとがた)。人に似せて作った物。それは、依代として最適である。何故なら、中身は違えど形が似ていれば馴染みやすいからである。玖史が用意した人型は、古い子供用の人形だった。元々付喪神が宿っていたが、その付喪神が悪さをして除霊屋の手によって消滅させられ、その後玖史の手元に渡って来た。空っぽの器(うつわ)であるが故に、憑依(ひょうい)も容易であろうとのこと。あまりの薄汚さと妙な不気味さに難色を示していた菜桜であったが、玖史の指導の下、人形に憑依した。
「うわぁー、私の手だ!」
 人の器を得て、菜桜は生前の姿を取り戻す。服は、亡くなった時に着ていた学校の制服。キラキラと目を輝かせ、己の右手を太陽に翳している。
「凄い! けど……なんか変?」
 違和感を覚え、菜桜は次に民家の塀に触る。
「触れるけど、何も感じない……暑くもない、寒くもない……」
「人の形をしていますが、所詮は人形ですから。神経が通っていないので、五感はありませんよ。聴覚や視覚は、霊体でも有していたものですから、その体自体が見聞きしているわけではありません。あなたは、死者です。生き帰ったわけではないのですよ」
 玖史は、容赦なくそう言い放つ。彼女の言う事は正論であるが、その強い口調は不快さに繋がる。菜桜は、『分かっているよ』と小さく不服そうに呟いた。
「条件通り、私と玖史が事が終わるまで監視するけど、何か言いたいことはある?」
 兎渡子は、人型を渡す前にそういう条件を菜桜に提示し、菜桜はそれを受け入れた。それを再度確認したのである。
「大丈夫。言葉が伝えられるならばそれで十分」
「では、これをポケットにでも入れておいてください」
 玖史が、ゴルフボール大のコンクリートの欠片を手渡した。菜桜は、不思議そうな顔でコンクリートを眺めている。
「あなたはこの土地に縛られています。この土地の物を持って行かないと、自由に歩き回れません」
 菜桜は、そう説明されても実感も理解も出来ず、とりあえず玖史の言葉に従って、スカートのポケットにコンクリートの欠片を押し込んだ。

 日が暮れて、今は二十時を少し回った頃。梯子(はしご)を使って、菜桜と共に兎渡子は、菜桜の家の二階のベランダへ。玖史は、外で見張りをしている。状況をまるで把握していなかった菜桜は、堂々と玄関から入って行こうとしたのを慌てて止め、ベランダから侵入する案を掲示し、今に至っている。菜桜は、いまいち自分が死んでいるという事を認識していないようだった。
 灯りがついている部屋は、妹の愛奈の部屋。カーテンが敷かれてあり、中の様子を伺い知る事が出来ない。兎渡子と菜桜は、二人揃って壁に寄っていた。
「もう一度確認しておくけど」
 兎渡子は、小声で菜桜に囁く。
「絶対に姿を見られたらいけないからね。手早く、伝えたいことだけを伝えて」
「分かっている」
 菜桜は、兎渡子の言葉に頷くと、一人で窓の前に立った。ガラスに手を添え、一端は目を瞑る。ほんの少しの間の瞑想。その中で、自分の気持ちを、言葉を、整理しているのだろう。
 目を開く。決意を胸に、言葉を紡いだ。
「愛奈」
 囁くように。
「愛奈」
 もう一度。
「誰……ですか?」
 ガラスの向こうから声が返って来た。その声の韻には、明確な恐怖が刻まれていた。
「お姉ちゃんだよ」
「お姉ちゃん?」
「そうだよ」
 ガラスの向こう側、人が近づいてくる気配がした。カーテン越しに、黒い影が差す。
「カーテンを開けないで!」
 カーテンの隙間から、カーテンを掴む手が見えた。菜桜の制止の声が届き、それ以上の動きはない。
「本当にお姉ちゃんなの?!」
 切羽詰まった声。
「そうだよ、お姉ちゃんだよ。だけど、カーテンは開けないで。姿を見られたら、私は消えちゃうから」
 それは、兎渡子と事前に決めておいた設定である。
「どうして……お姉ちゃん、どうして?」
 その言葉には、様々な思いが込められていた。死の否定と認識。矛盾する思いの表れ。言葉にすれば、全て泡沫(うたかた)に帰してしまうような、漠然とした恐怖。声を聴いただけで、それらがひしひしと伝わって来ていた。
「ごめんね、勝手に死んじゃって」
 菜桜は、敢えて自分が死者である事を明確にした。それは、今生きているのだと錯覚してしまいそうになる、自分の気持ちを戒める意味もあった。
「どうしても伝えたい言葉があって、少しの間だけ戻って来たの。お姉ちゃんの遺言を聞いてくれる?」
 カーテンを掴む愛奈の右手が震えている。
「聞かない……」
「えっ?」
「だって、お姉ちゃんは死んでいないもん!」
 カーテンが開かれてしまった。ボロボロと涙を零す愛奈のくしゃくしゃの顔。ベランダに、白熱灯の光が差し込み、音と色で兎渡子は現状を把握するに至る。
「ここまでよ!」
 兎渡子の声で、顔を向けた菜桜。菜桜は、泣いているような困っているような、そんな複雑な表情をしていた。
「分かっているでしょ?」
 兎渡子が諭すように言う。菜桜は、愛奈の方へと視線を向け――。
「ごめんなさい」
 強く愛奈を抱きしめた。
「私は……」
 兎渡子は、猛烈な嫌な予感を覚えていた。しかし、この状況でどう対応していいのか分からない。逡巡(しゅんじゅん)している間に、菜桜が顔を伏せたまま、静かに左手の平を兎渡子へと付きだした。
「私は、もう少し生きたい」
「だから……」
「お願い! 出て行って! 出て行って!」
 どうしたものかと、考えあぐねる兎渡子。その時、菜桜の妹がじっとこちらを見ている事に気付いた。冷たくて暗い視線。菜桜をこのままにしておけないのは確かであるが、現状どうする事も出来ない。
「また来るから」
 兎渡子は、撤退することにした。少し時間を置いて、菜桜が一人になった時に対応する方がいい、と判断したからだ。そう思う反面、兎渡子は抱き合う姉妹の姿を見て、羨ましいと思っていた。

 這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で、ガラクタ堂まで戻って来た。月明かりだけの店内。兎渡子は、どっかりと床に座り込んだ。
「あぁー、失敗したぁ!」
 天井を見上げて、ぼやく。すると電気が燈り、急激な明るさの変化に兎渡子は目を細めた。
「とりあえず、シャワーを浴びて、ご飯を食べて、寝てください」
「うぅ……そうする。ごめん、迷惑ばかりかけて」
 玖史は、何も言わずに笑っていた。
 玖史の言葉に従い、シャワーを浴びて、玖史が用意した夜食を食べ、客室で横になった。心配事で頭が一杯であったが、気付くと兎渡子は深い眠りへと落ちていた。

 次の日の朝。兎渡子は、欠伸(あくび)を噛みしめながら、店の方へと顔を出した。時刻は、十時少し前。玖史は開店準備をしているのではないか、そう思っての事であった。案の定、玖史はカウンターに向かっていた。帳簿を開き、電卓を叩き、時々首を傾(かし)げている。
「玖史、おはよう」
「あっ、おはようございます。よく眠られましたか?」
 玖史は、作業を中断して、兎渡子の方へと体ごと向き直った。
「ちょっと寝過ぎて頭が痛いぐらいよ」
 兎渡子は、頭を右手で支えながら、苦笑する。
「すぐに何か作りますね」
「あ、仕事が終わってからでいいよ」
「丁度一休みしようと思っていた所でしたので」
 玖史は、台所へと向かって行った。開店準備はいいのだろうか? そう思ったが、良く考えるとこのガラクタ堂が何時から何時まで開店しているのか、知らない事に兎渡子は気付いた。
 玖史を追いかけて、居間の方へ戻った。ガラクタ堂は、古い日本家屋を改造している。表側は店舗で、カウンターの奥は、少し段差があってすぐに居間になっている。襖を挟んで向こう側が台所で、店側から来ると右側が廊下になっている。その廊下は途中で曲って、奥に続いており、客室はその途中にある。もう少し奥に玖史の個室やら、玖史が集めた古書を保管している部屋があり、さらに奥は倉庫。その近くに庭に降りる階段があり、その庭には年代が古くて、しばらくは用がないものを保管する蔵が建っている。
 居間は、畳部屋。卓袱台(ちゃぶだい)が中央に鎮座しており、部屋の隅にはダイヤルが付いた古いテレビが一台。その上に、二十型の液晶テレビが置いてあり、映るのはその液晶テレビの方である。古いテレビは、動かすのが面倒であるため、そのまま置いたままにしていると、昔玖史が話していた。その事を、兎渡子は珍妙なオブジェと化しているそのテレビを見る度に思い出す。
 テレビのチャンネルを付ける。ローカル番組が流れており、丁度天神付近の様子が流れていた。それをぼんやりと眺めていて、兎渡子ははたっと気付いた。
「あっ、マイに電話してない!」
 兎渡子は、一人暮らしではない。マイという、マイセンカップの付喪神と一緒に暮らしている。そのマイに、何一つとして連絡をしていなかったのだ。
「マイには、連絡をしておきましたよ」
 丁度、玖史が居間に戻ってきた。暖かな湯気が漂う味噌汁とご飯をお盆に乗せた玖史の姿は、相まって兎渡子には神々しく見えていた。
「ありがとう、玖史!」
「一応、仕事でしばらくここにいる、とだけ伝えておきました。ただ、早く帰ってあげてくださいね」
「分かっている。本当にありがとう!」
 ひとしきり玖史に感謝した後、玖史が用意してくれた朝食に向かう。玖史は、すでに食べたという事で、緑茶を淹れた湯飲みだけ抱えている。
 玖史とたわいのない話をしながら食事を摂る。食事も粗方終わろうか、そんな頃合い。兎渡子はふとテレビが気になった。いつの間にか、ニュースになっていた。住宅街の映像。『閑静な住宅街で一体何が?!』というテロップが躍っている。その住宅街の映像が、どこか見覚えのあるものだった。食事の手を止め、ぼんやりと眺めている内に、兎渡子ははたっと気付く。
「あれ? ここ、あの子の家の近くじゃない?」
 映っていたのは、菜桜と共に菜桜の家を訪れた時に通った場所であった。猛烈な嫌な予感を覚える。兎渡子は、慌てて食事を平らげた。
「ごちそうさま! ちょっと、様子を見て来る!」
 慌ただしく部屋を出ていく兎渡子。
「ちょっと待ってください! 私も行きます!」
 玖史も、慌ててそんな兎渡子を追いかけた。

 テレビに映っていた場所まで来ると、大変な事になっていた。野次馬と警察。菜桜の家に行くための道は封鎖されており、辿り着く事が出来ない。兎渡子は、その様子を少し離れた路地から観察していた。
「な、なんか大事になっているんだけど」
「何があったのでしょうか」
 玖史も、不思議そうに眺めている。そんな折、兎渡子はある事に気付いた。野次馬と警察、それに紛れる形で、見覚えのある人が混じっていたのだ。名前は知らない。だが、その人が除霊屋の人間で、兎渡子がかつて春野家という除霊屋に属していた頃に見たことがある顔であった。慌てて兎渡子は、顔を引っ込めた。
 除霊士がいる。それは兎渡子の嫌な予感をさらに増大させた。除霊士とは、除霊屋に所属する者の事を言う。除霊士が居るという事は、つまりここで起こった事件は、妖や幽霊絡みという事になる。そうなると、思いつく存在は一つしかない。
「あの子、一体何をやらかしたのよ!」
 十中八九、菜桜が何かをやらかしたのだ。そう考える他ない。どうにかして情報収集しなければ――そう思った矢先の事である。
「兎渡子? 何をしているんだ?」
 そう声をかけられた。兎渡子が様子を伺っていた路地の反対側、兎渡子たちがこの場所へとやってくるために使った路地の方に、一人の女性が立っていた。男物のスーツを身に纏い、目つきはややきつめ。スレンダーな体躯の彼女は、傍から見れば男にしか見えない。
 春野蓮華。兎渡子がかつて所属していた春野家の除霊士であり、兎渡子の幼友達である。兎渡子の顔から、血の気が一気に引いた。
「お、おれん……!」
 おれんとは、蓮華の愛称である。
「何をしているって、見ての通り野次馬よ」
「玖史を連れてか? 兎渡子、洗いざらい吐け。お前の仕業だな!」
 蓮華は、兎渡子の服、右肩の上付近をがしっと掴んできた。その勢いで後ろに押されそうになりながら、兎渡子はなんとか踏ん張る。
「いきなり人を犯人扱いしないでくれる!?」
「私だって、お前が犯人だとは思いたくはないさ! だが、さっきの表情は、やらかした時の顔だった!」
 古くから付き合いがある分だけ、嘘もなかなか通らない。
「おれんには関係ないことよ! 私に干渉しないで!」
 兎渡子の言葉に、蓮華は目を大きく開いた。直後、蓮華は兎渡子をさらに力強く押した。
「また、私をのけ者にするのかよ!」
 蓮華に強く服を引っ張られ、さらに背後に押されて、動きが取れないまま兎渡子は成すがままとなる。そんな蓮華の、兎渡子を掴む右腕を、玖史が両手で静かに掴んだ。
「お二人ともやめてください」
 静かに諭すように。兎渡子と蓮華の視線が、玖史に向けられる。
「あなた達は、本当にいつまで経っても子供なのですね。本来、これは私が言う事ではありません。しかし、このままでは埒が開かないから、言わせて頂きます。兎渡子様、あなたは蓮華様の気持ちを理解してあげてください。蓮華様は、もう少し大人になってください」
 ぴしりと言い放つと、空気までピンと張ったような感じがした。兎渡子と蓮華は、お互いに視線を向けあう。それから蓮華は、兎渡子の服から手を離した。
「ごめん、兎渡子。ちょっとどうかしていた」
 蓮華は、右手で自分の頭を抑える。兎渡子は、服を整えながら、そんな蓮華を直視せず、ぼそりと『別にいい』とだけ答えた。兎渡子には、何故蓮華がいつもこんなにも一生懸命なのか、分からない。保身のためなのか、それとも本当は兎渡子の事が嫌いなのか。玖史は、『あなたは蓮華さんの気持ちを理解してあげてください』というが、それが出来れば苦労はしない。
 二人の間にある溝は、まだかなり深い。
「蓮華様、兎渡子様にはちゃんと言葉にしなければ届かないと思いますよ」
 玖史にそう言われて、蓮華は少し驚いた顔をした。
「……そっか。私は、ちゃんと言葉にしていなかったのかもしれない。もしかして……ずっと、言葉にしていなかったのかも。それに、私は……兎渡子に、まだ『おかえりなさい』と言ってない」
 うわごとのように蓮華はそう呟く。
「おれん?」
 不安そうに蓮華を伺う兎渡子。蓮華は、右手で拳をぎゅっと作ると、それを腹で溜めた。
「色々と話をしたいけど、今は急を要するから、これだけ言っておく。私は、兎渡子の事が心配でたまらない。だから、私を頼れ!」
 蓮華は、拳をぱっと開き、その開いた手を兎渡子へと差し向けた。兎渡子は、蓮華の差し出した手を見て、それから顔を見る。蓮華は、どこか憑き物が落ちたような晴れ晴れしい顔をしていた。その様は、兎渡子に過去の記憶を想起させた。
 小学一年生の頃。他の子供たちと違って、見えないものが見えていた兎渡子は、クラスでイジメにあっていた。そんな兎渡子を助けたのが蓮華であり、その時も今のように蓮華は笑って手を差し伸べてくれた。
「分かった。全部話す」
 兎渡子は、ぼそりとそう返した。

「この大馬鹿っ!」
 事情を全て話すと、蓮華に一喝された。それから蓮華は慌てて自分の口に、右手で蓋をして、開いた左手で兎渡子の首根っこを掴まえて引き寄せた。
「ちょっと来い。他の連中にばれたら、さすがに座敷牢行きだぞ」
 蓮華の車に乗せられて。二十分ほど車を走らせた後、細い畦道で車を一端停めた。周りは、田んぼが広がっている。車から降りた蓮華は、その田んぼで働いている人に声をかけた。
「オセロット!」
 田んぼで働いていた人が、顔を上げた。彼が、『元』破壊神のオセロットである。
「ん? 蓮華か。どうした? 結婚が決まったのか?」
「お前は、近所の節操のない隣人かよ」
 蓮華は、呆れた顔をしている。
「ちょっと部屋を貸して欲しいんだ」
「何をやらかしたのか。良い、祖母に電話を入れておく」
「助かる」
 いつもは蓮華をからかうオセロットであるが、空気を読んだらしく、あっさりと了承してくれた。
 オセロットが間借りしている家は、農家をしている斉藤という老夫婦の家である。オセロットは、彼らに催眠をかけ、孫として住み着いている。
 家に居た、オセロットの偽りの祖母に挨拶をして、客室を使わせてもらう。畳の十二畳はあろうかという部屋。元は地主であったとのことで、その宅地面積は広大である。そこに、老夫婦とオセロットの三人しか住んでいない。この客室も、掃除はされているが、今では時々顔を出す、兎渡子や蓮華が使うぐらいだ。
 麦茶とお茶菓子を用意してくれた祖母に礼を言い、兎渡子と蓮華は、立派な木のテーブルを挟んで向かい合う。下座には、玖史が座っていた。
「アイツを頼るのは癪に障るが、さすがに除霊屋の息がかかっていない場所は、ここぐらいしかないしな」
 蓮華は、麦茶をきゅっと煽り、プラスチックのポットから麦茶を再び注ぐ。そこで、大きな溜息を吐いた。
「兎渡子、前々からずっと思っていたけど、お前はどうしてそう考えなしなんだ」
「色々と考えた結果よ。まぁ、こんな事になっちゃって、反省している」
「なおさら悪いわ。今回の事が除霊屋にばれたら、さすがに私でも庇いきれないぞ。玖史も、懲罰を免れない」
 除霊屋には、除霊屋の規律が存在する。それは、超常的な力を管理するためには、絶対に必要となる大切なもの。基本的に、『この世の理から外れしものたちを調整する』ことに使う事とされており、また緊急時を除いて、当主の承認を受けなければ力を使う事は許されない。
 兎渡子は、誰の承認も受けず、個人の判断で玖史を使って、菜桜という幽霊に人型を用意した。それは、重大な規律違反。兎渡子は、除霊屋の春野家から、実の所は除籍されていない。そのため、事の真相が知れれば、兎渡子は当然ながらも、春野家の当主を含む、春野家全体にまで、懲罰は及んでしまう。下手をすれば、能力の強制封印を施される可能性もある。そうなれば、兎渡子はもう二度と、幽世珈琲を淹れる事が出来なくなる。
「当主が、何故お前を除籍しなかったか、それを考えたら、迂闊な事は出来なかったはずだ。いや、そこら辺、お前考えなかっただろう?」
 兎渡子は押し黙ってしまう。蓮華の言う通りだったからだ。
「蓮華様、説教はそれぐらいになさってください。それよりも、今、何が起こり、これから何が起ころうとしているのか。どう対応していくべきかを話すべきでは?」
 玖史に言われて、蓮華は自分の髪を乱暴に掻いた。
「そうだった。すまん、玖史」
 蓮華は大きく息を吸い込み、心を落ち着かせる。ゆっくりと息を吐き出した後、兎渡子を正面から見据えた。
「相当、まずい事になっている」
 蓮華は、そう話を切り出した。

 深夜三時頃。入江家から火が出ていると、近所の人から通報があった。火は消し止められ、焼け跡から一人の遺体が発見される。それは、菜桜の父親だった。母親の方は、全身血だらけで、隣の家に逃げ込んでおり、酷い錯乱状態。残る妹の愛奈は、行方知らず。母親が、『死んだ娘が生き帰って、殺しに来た』と繰り返し訴えるため、霊障(れいしょう)である可能性も考慮され、除霊屋に出動要請があった。
「私が、あの場所に居たのはそういう事だ。ちなみに、母親の方はいくつか裂傷を追ってはいたが、命には別状はなかった。父親の方は、最初焼死だと思われたが、左胸に刺し傷があったため、今の所、殺人事件扱いだな。そして、犯人は妹の愛奈だと、警察は睨んでいるようだ。まぁ、一人だけ行方をくらませているとなると、必然的に疑われるわな」
 蓮華は『しかし』と強い口調で言う。
「兎渡子の話を聞くに限り、どう考えても、犯人はその菜桜だろう。動機は分からないがな」
「あぁ、やっぱり必然的にそういう流れになるのね」
 兎渡子は、大きなため息を吐く。
「妹に伝えたい言葉がある、というのが、何故父親を殺して、家を燃やす事に繋がったのか」
「私もまだ詳しくは聞いていないが、あの家では父親のDVに悩まされていたそうだ」
「DV……受けていたのは、母親?」
「んにゃ、娘だったとだけ、聞いた。どっちかは、聞いてない」
「伝えたい言葉……」
 菜桜は、何を妹に伝えようとしたのか。情報が、圧倒的に足りていない。推測が出来ない。兎渡子が悩んでいると、蓮華がぼそりと言葉を続けた。
「このままじゃ、ヤバイかもしれん」
 蓮華も蓮華で、これから何が起こるのか、必死にシミュレーションを行っており、その結果ある答えに辿り着いていた。
「ヤバイ?」
「事情は良く分からないが、動機ははっきりしている。菜桜は、妹を守るために父親を殺した。母親を殺さなかったのは、妹には害がないからだろう。むしろ、妹が生きていくためには必要だと思ったのかもしれない。そう考えると、菜桜の究極の目的は、妹を守る事だ。これを聞いて、嫌な予感がしないか? 兎渡子」
 兎渡子も、蓮華が何を言いたいのか、察した。
「まさか、妹を取り込むとか、言わないよね?」
 妹を守る。その目的を達するために、最も確実でそれでいて効率的な事が一つある。
 妹を殺して、妹の魂を取り込む事。そうすることで、妹とずっと一緒に居られるし、自分が存在をし続けている限り、妹を守る事が出来る。それは、正常な判断を持った人なら、『間違えている』と言い切れる。しかし、死者である菜桜はどうだろうか。兎渡子は、菜桜がすでに『禍りかけている』と感じていた。父親を殺したのが菜桜自身であるならば、もうその心は、ほぼ禍っている可能性がある。
 しかし――。
「けど、なんだか腑に落ちない」
 菜桜の目的は、妹を守る事だったのだろうか? どうしても、『妹に伝えたいことがある』と『妹を守る』という事が、イコールであるようには兎渡子には思えなかった。
「どちらにせよ、その入江菜桜という子を急いで探さないと、取り返しのつかない事になりかねん」
「そうは言うけど、どこにいるのか、全く見当が……」
 菜桜とは知り合ったばかり。彼女が行きそうな場所なんてものは、さっぱり分からないのが現状だった。
「分かりますよ」
 玖史がぽつりと言った。
「本当なのか?」
 蓮華の言葉に、玖史はコクリと頷く。
「GPSを人型に付けておりましたから。こんなこともあろうかと、という奴です」
「さすが玖史!」
 玖史の機転に、兎渡子も素直に称賛した。
「これで居場所は特定できる。行くぞ、兎渡子!」
「あっ、待って。どうしても腑に落ちない事があるのよ」
 早速とばかりに出かけようとする蓮華を、兎渡子は引きとめた。
「腑に落ちない事?」
「そう、どうも、こう……漠然としているんだけど。とにかく、あの子が自分を忘れかけているならば、思い出させることで問題を解決できるかもしれない」
「……幽世珈琲か」
「ちょっと、珈琲の粉がないか、聞いてくる」
 兎渡子は、祖母を探すために部屋を出た。しばらくして戻って来た彼女の手には、小さな紙の箱が収められていた。
「まさかのスティックコーヒーしかありませんでした」
「……大丈夫なのか?」
「多分。珈琲そのものに力があるわけではなく、私の指が触れる事で力が宿るみたいだから。正直、インスタントで試したことがないから、そこの所は不安だけど、この際しょうがないよね」
 祖母からボールと水筒を借り、ボールで一気に溶かして、水筒へと流し込んだ。祖母に後で返しに来ることを説明して、兎渡子は蓮華と玖史と共に、GPSが示す菜桜の元へと向かった。

 蓮華の車に揺られて、ひたすら北上。GPSが示した場所は、西戸崎(さいとざき)だった。まっすぐに海を別けて走る道路。蓮華は、路肩に車を止めた。潮風に煽られながら、周りを見渡す。菜桜を最初に見つけたのは、兎渡子だった。
「まずい!」
 兎渡子の顔が一気に青ざめる。菜桜と、その妹の愛奈の姿は、道路から階段を下りた先に広がる砂浜にあった。二人仲良く並んでいるというような光景ではない。菜桜は、愛奈の首に両手をかけていた。
「蓮華!」
「合点承知の助!」
 蓮華は、ガードレールを飛び越えて、砂浜に降り立ち、菜桜の元へと走っていく。兎渡子と玖史は、階段を経由して、蓮華を追いかけた。
 一気に砂浜を駆け抜ける蓮華。それに、菜桜も気付く。蓮華の方へと顔を向けたその時、蓮華は砂を右手で勢い良く掬い上げた。
「喰らえ! 必殺砂かけババァ!」
 蓮華の霊力を纏わせた右手によって巻き上げられた砂は、砂嵐となって菜桜と愛奈に襲いかかった。菜桜は両手で顔を庇い、結果愛奈が地面へと落ちる。蓮華はそのまま勢いを殺さず、菜桜の体幹に向かって突進した。
 弾き飛ばされる菜桜。蓮華も同時に転がり、彼女はその勢いで体勢を整える事が出来たが、菜桜はそのまま派手に転がっていく。解放された愛奈は、酸素を求めて呼吸した結果、大量に砂を吸い込み、咽(むせ)て、涙目になり、もがき苦しんでいる。
 菜桜が、ようやく体勢を整えて体を起こそうとする。四つん這いになった彼女の、どんよりとした眼(まなこ)が蓮華を捉える。しかし、蓮華はそんな彼女を鼻で笑った。
「かかってこい!」
 蓮華の言葉に煽られるように、菜桜は突進してきた。蓮華はちらりと兎渡子の姿を確認する。兎渡子と玖史は、ようやっと愛奈の所へと辿り着いている所だった。まだ、時間を稼ぐ必要がある。蓮華はそう判断し、菜桜へと再び向き直った。
「成りたての妖如きに、後れを取るほど、この私は甘くねぇんだよ!」
 突きだして来た右手、続く左手、それぞれ腕の部分をがっしりと蓮華は掴んだ。凄まじい力で押してくる菜桜であるが、さすがに相手が悪すぎた。蓮華の霊力は、筋力に強く作用する。時速六十キロ程度の車なら、素手で止められるほどなのだ。
「兎渡子、早く来い!」
「ちょ、待って! 速すぎるのよ!」
 兎渡子は、もたもたと砂浜を走っている。元々、兎渡子は運動が得意ではない。さらに、下は砂浜という悪条件。足を取られて、いつもよりも動きが鈍くなっていた。蓮華はそれを見てとって、舌打ちした。
「そっちに投げるぞ! なんとかしろよ!」
「えっ?! ちょ!」
 兎渡子の返事を待たない。蓮華は少しだけ力を抜く。前屈みとなった菜桜の懐に滑り込み、一本背負い。下に叩きつけるのではなく、そのまま投擲した。まるで冗談のような光景であった。
 兎渡子の近くに落下した菜桜は、派手に砂煙を巻き上げる。兎渡子は、慌てて背中を向け、座り込む。そして、水筒の蓋を回して取り外した。その際、愛奈と目が合う。玖史が、しっかりと首根っこを掴んでいた。
「やめて」
 そう聞こえた。愛奈も混乱している。その様から、彼女もいまいち状況を把握できていないのだろう。兎渡子は、水筒の中蓋に取りつけられたボタンを押し、外蓋に珈琲を流し入れた。
 愛奈の訴えを振り切るように。勢いよく振り返った兎渡子は、なんとか体を起こそうとしている菜桜に、珈琲を振りかけた。

 菜桜の視界に飛び込んできた、青い空。空を見上げていた菜桜は、ゆっくりと視線を降ろしていき、最終的には何かを抱えるような形で止まっていた自分の両手へと辿り着く。そんな菜桜に、玖史の手から解放された愛奈が走り寄った。
「お姉ちゃん!」
 愛奈に抱き締められ、菜桜はその時、自分が確かに死者だと認識した。真っ黒に濁って何も見えなくなっていた視界が、さっと晴れていく。温もりを感じる事が出来ない体。これは、ただの人型。神経の通っていない、偽りの体。
「愛奈」
 涙を流す愛奈の顔を上げさせ、そっと涙を拭う。ずっと、この身を賭して守って来た、大切な宝物。まずは、愛奈が無事であることを菜桜は喜んだ。
 今なら伝えられる。菜桜は、愛奈に優しく微笑みかけた。
「私は、愛奈の姉で本当に良かった。幸せになってね」
 死ぬ間際、これだけは伝えておきたいと願った。そうしなければ、愛奈はずっと菜桜の事を重荷に感じたまま生きる事になるからだ。
「お姉ちゃん……」
 愛奈の頭を撫でる。それから振り切るように、兎渡子へと視線を向けた。
「ごめんなさい。それから、ありがとうございました」
 次の瞬間、ぱっと姿が消え、玖史が持ってきた人型が姿を現す。愛奈の慟哭(どうこく)が、さざ波を掻き消して、響き渡った。

 一週間後――。
 兎渡子は、再び散歩をしていた。もうコースは決めてあり、無駄に歩き過ぎる事もなくなった。
 菜桜の事件は、蓮華が何とかしてくれた。色々と調べた結果、やはり菜桜が父親を殺害して、火を放ったとのこと。妹の証言からも、裏付けが取れている。元々、父親は主に菜桜に暴力を振るっており、菜桜は自分が死んだ後、愛奈が暴力に晒されることになるのではないかと心配していた、と推測される。家を燃やしたのは、すでに暴走状態だった菜桜が、愛奈を縛るものは全て壊そうとした結果だったと思われる。
 この事情を利用して、蓮華は『父親は、彼を恨んでいた菜桜の幽霊によって殺された。すなわち霊障である。その菜桜も、すでに祓(はら)った』として報告書を提出。しばらく検討されていたが、蓮華がしつこく押すものだから、ある条件を蓮華が飲むことで、報告書を受理された。
 一般社会には、『霊障』でした――という風な説明はされない。一般社会では、あくまで神や妖の類は、空想上のものであるという観念になっている。そのため、除霊屋はこの時、事件をでっち上げたり、可能であればなかった事にしたりする。
 今回は、火災で延焼しているため、事件として発表するしかなかった。事件として発表されたのであれば、警察の沽券にも関わるので、出来ればきっちりと犯人は逮捕されなければならない。蓮華が飲んだ条件とは、除霊屋業界では『生贄』と呼ばれる、犯人役であった。
 こうして、特殊メイクをした蓮華が犯人役としてメディアに晒されることで、事件は解決。菜桜の妹は、除霊屋に協力することを条件にして、事件の記憶の保持を許されたが、母親の方は記憶の改ざんをされ、今でも特殊メイクをした擬装犯人を憎んでいる。
 一方、事件の引き金となった兎渡子は、表向きにはお咎めなし。蓮華が、兎渡子の事を表に出さなかったからだ。その代わり、長々と蓮華に説教され、『お前に一番ふさわしい罰はこれだ』と、パソコンやらゲーム機やらを持って行かれてしまった。期限は、一ヶ月である。
 菜桜と最初に出会った場所に差し掛かる。この場所で折り返し、家に戻るコースを兎渡子はここ最近いつも歩いている。真新しい花束が置いてある。また、妹が来たのかもしれない。そんな事を思いつつ、いつものように折り返そうとしたその時である。兎渡子は視線を感じて、塀の上を見上げた。
「どうも〜」
 菜桜が、笑顔で手を振っていた。見間違えかと思い、目をこすって見るが、菜桜の姿は消えない。
「えっ……な、なんで?!」
 驚愕する兎渡子。菜桜は苦笑しつつ、後頭部をポリポリと掻く。
「それが、お父さんを殺したことで、お父さんの恨みを背負ったみたいで、なんか成仏し損ねました」
 兎渡子は、頭を抱えた。菜桜は、元々『妹に伝えたい言葉がある』という思いが強くて、この場に残っていた。それが消滅した代わりに、今度は父親の恨みで、この場に縛られてしまった――と、彼女は言っているのだ。
「今度は、どうしようか?」
「あっ、このままでいいです」
 菜桜は、あっさりとそう言う。
「お父さんを殺してしまった罰は受けないといけないし。それに、ここに居たら愛奈の姿も見られるから」
 そこで、菜桜はどこか照れ臭そうに笑う。
「だけど、やっぱり暇なので、時々でいいからお話に来てくれると嬉しいな、とか思ったり。散々迷惑をかけておきながら、こんな事を頼むのも……」
「別にそれぐらい構わない」
 菜桜の言葉を、兎渡子は遮った。
「私にも姉がいてね。あなたの頼みを聞いたのも、本当は自分のためでもあったから。気に病む事はないから」
 そこで兎渡子は、体を大きく伸ばした。
「それに、私も散歩を続ける理由が出来て助かる。絶対このままじゃ、長く持たないなぁーて思っていた所だったのよ」
 兎渡子の言葉に、菜桜はコロコロと笑った。

 ここは幽世喫茶。
 姉の事を思うマスターがいるお店。



END

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