堕天王の逝く道

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zoom RSS 空白ノ翼第七章『覚醒予兆』 第二話『覚醒予兆前編』  その1

<<   作成日時 : 2011/12/24 20:58   >>

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空白ノ翼は、私こと堕天王が描く、長編現代ファンタジーです。
本編は、前の話を読まなくても分かるように努力して書いているため、やや説明過多な所が見受けられるかもしれません。下記の『空白ノ翼の説明書』をご覧になると、もう少し分かりやすくなるかと思います。

空白ノ翼については、
空白ノ翼の説明書
をご覧ください。

さて、ついに第七章の第二話です。
当然ながら第七章の第一話の続きです。時系列としては、第六章と第六章後日談の間ぐらい。

空白ノ翼第七章『覚醒予兆』 第一話『沙夜の友達』

他、関連が深い話としては、
第一章 第三話『面影の王子様』 
第一章 第四話『聡への疑念』 
第五章 第二話『聡の足跡』 
などです。
由紀子の暴走関連は、この三つを見ていると、少し唐突感が無くなるかと思います。

文章量がオーバーしたので、その1とその2に分けます。
その2は、こちら

では、本編です。


   空白ノ翼『覚醒予兆』
   第二話 『覚醒予兆前編』

 2005年 7月下旬――
 揺蕩(たゆた)う泡沫(ほうまつ)。電子音の子守歌に耳を貸しつつ、ゆらりゆらりと身を任せる。母親の胎内というのは、こういうものかもしれない――藤堂晃(あきら)は、おぼろげにいつもそう思う。そんな彼は、肝心の母親の顔も思い出せないが。
 治療用と調整用を兼ねるポット。二メートルほどの円柱型で、中身は薄緑色の溶液に満たされている。その中に晃は浸っており、その周りには白衣を着た人々が静かに業務をこなしていた。
 現代の科学を超える品物。オーバーテクノロジーの産物。いや、かつて存在していた高度な文明の技術の応用というのであれば、『ロストテクノロジー』とでも称した方がピッタリと来るのかもしれない。
「よし。溶液を抜いて」
 白衣を着たメンバーの中でも一際若い女性の指示が飛ぶ。彼女の名は、瑠璃葉(るりは)。この施設の主任である。
 溶液から出て、シャワーを浴び、着替えを済ませた晃は、再び瑠璃葉の下へと戻って来た。瑠璃葉は、オフィスチェアーに体を沈めており、晃に空いている席を進めた。
「お疲れさん。調子はどう?」
「とてもいいです。ここ最近は、いつもより頭がすっきりしている感じがします」
「なるほどね」
 ちらりと表示されている彼のデータを一瞥する瑠璃葉。藤堂晃は、ここではもっとも優遇された特別な被験体である。しかし、実験の内容が内容であるため、投薬や処置の状況では、極端な時には昏睡状態に陥ったり、記憶が混乱したりすることもあった。そんな彼に対する投薬が、ここ最近減量傾向となってきている。彼が『頭がすっきりしている』と話すのは、そのためであろう。
「とてもいい傾向ね。今日は、部屋に戻って休みなさい。次の任務はまだ決まっていないけど、いつ入るか分からないしね」
 そう話しをしていると――。
「晃はいるかしら」
 いわゆるゴシックロリータの衣装を身に纏った女性が、部屋に入って来た。瑠璃葉は、溜息と共に心の中で『もう次の仕事か』と呟いていた。女性の名は、ルベリア=カッサ。緑色の髪と金色に光る瞳の持ち主。その異色な容姿は、人種のせいではない。種族の違いである。見た目は瑠璃葉や晃と同じ人型であるが、彼女は瑠璃葉や晃と同じ人ではない。一般には浸透していないが、現在の人類は『セカンド・エンパイア』と称される。ルベリア=カッサは、『ファースト・エンパイア』。つまり、前文明の生き残りなのだ。
「晃なら、ここにいるわよ。帰って来たばかりで、まさか仕事ということはないよね?」
「そのまさかよ。残念ながら」
 ルベリアは、晃を見つけると速足で近づいてきた。
「とにもかくにも、晃。おかえりなさい」
 そして、ぎゅっと抱きしめた。
「相変わらず、食べてしまいたいほど可愛いわね」
「ただいまです、ルベリアさん」
「疲れているあなたにこんなことを言うのも心苦しいのですが、鬼神皇(きしんのう)さまがお呼びになっておられます」
「はい。ただちに向かいます。瑠璃葉主任、ありがとうございました」
 晃は、するりとルベリアの抱擁から抜けて、瑠璃葉に頭を下げ退室した。そんな晃を真剣な眼差しで見送る瑠璃葉。彼女は、どうも嫌な予感を覚えていた。
「何か気になる事がおありなのですか?」
「最近、投薬量が減っていてね。ちょっとその理由が分からなくて」
「鬼神皇さまには鬼神皇さまのお考えがおありなのでしょう」
 ルベリアも退室する。そんな彼女の背中を、瑠璃葉は睨みつけていた。
「いつも晃の事可愛がっているのに、鬼神皇さまの事が絡むとやっぱりそっちが優先なのね。私には、よく分からないわ」
 瑠璃葉は再び、晃のデータへと視線を移す。何事も起こらなければいいが。そんな願いを心に秘めて――。

 いつからここにいて。どれだけ戦ってきたのか。晃は、はっきりは覚えていない。投薬と処置の副作用で、記憶に混乱が生じるためだ。時には、自分が誰なのか分からなくなることもあったほどである。
「もう次の任務なの?」
 黒い髪の少女が心配そうに聞いてくる。彼女の名は、久遠(くおん)。晃と同じ年で、晃のメンタルを管理してくれている。
「うん。今回は、鬼神皇さまと一緒に。なんでも、特殊な霊媒体質の女の子を手に入れるとかで」
「そう。無茶はしないでね」
 晃は、無邪気な笑みを浮かべた。
 何のために戦っているのか。そんな事は分からない。ただただ、鬼神皇に従うのみ。それが晃の全てであり、晃がいつでも覚えている間違いのない真実だった。
 今回のターゲットは、特殊な霊媒体質の少女の拉致。名前は、氷女(こおりめ)沙夜。舞台は、かつて日本の除霊屋業界を支配していた、橘(たちばな)家のお膝元、櫻(さくら)町。失敗すれば、除霊屋の人間がワラワラ出て来て、脱出は難しくなるだろう。時間をかけず、短時間に拉致して、船で脱出。求められるのはそれだ。
 晃はいつも通りに武装を済ませ、久遠に見送られ部屋を後にした。

 2005年 8月13日 18時頃
 氷女沙夜と橘櫻は、櫻町の商店街の中にある喫茶店の前で、鏑木(かぶらぎ)優子を見送った。沙夜と櫻と優子、三人は櫻中学の同級生である。二人に背を向ける優子の背に哀愁が漂っているのは、いま彼女は大変な激務の中にいるからだ。
 七月三十一日に亡くなった鏑木グループの会長。その孫娘になるのが優子である。祖父が亡くなったことで、様々な引き継ぎや遺産相続の掛け合いが始まり、優子もそれに巻き込まれていた。なんとか時間を見繕って、今日ようやく沙夜と櫻と話をする時間を取れたが、それも一時間程度。優子は、二人との別れを惜しみながら、帰って行った。
 沙夜と櫻は、その後夕食の買い物へ。お盆の間、沙夜は櫻の家に泊まることになっていた。沙夜の祖母の家に、親戚が集まって来るからである。学校に通えるようになったとはいえ、学校にいる人たちは昔の沙夜の事を知らない人だ。しかし親戚は、沙夜の事を快くは思っていない。とてもそんな人たちと一緒には過ごせないと、櫻に話した際、櫻が自分の家に泊まるよう提案してくれた。沙夜は、それに甘える事にしたのだ。
 夕食の買い物を済ませ、商店街を後にする。商店街の入り口には、コンビニがある。そのコンビニの前で、二人は顔見知りの少女と出会う。
「由紀子(ゆきね)さん!」
 沙夜は、少女――小泉由紀子に走り寄る。彼女は、沙夜の能力を封印している『鎮めの契り』を手に入れる際、協力してくれた沙夜にとっては特別な人である。
「おぉー、沙夜ちゃん。ん? 櫻さんもいるのね」
「こんにちは。いつも姉がお世話になっております」
 櫻はぺこりと頭を下げる。櫻の姉である椿は、由紀子の親友である。
「お世話になっているのはこっちの方だよ」
「今日は、櫻さんの家に泊まるんですよ」
「へぇー、そうなんだ」
 帰り道が同じであるため、由紀子と一緒に帰路に就く。やはり話題に上がるのは、鏑木家の事。由紀子自身は鏑木家と直接の関係はないが、同級生の天野神華(しのか)のお手伝いさんが優子の姉であった。実家に帰ったそのお手伝いさんの代わりに、由紀子は椿と共に天野家に泊まっていたことがあった。今は、一足先にそのお手伝いさん――鏑木恵美子は、天野家に戻っており、由紀子も実家に戻っていた。
 真夏の夕方。まだまだ日が沈む気配はない。長く伸びた影に追われるように、三人は会話をしながら歩いていく。そんな三人を見つめる者がいた。短髪の少年。黒い衣服を身に纏った彼は、民家の屋根の上で体を小さくして座っている。
 少年は、左腕を少し前に出した。その左腕を右手で支え、まるで銃を構えるかのように――腰を低くして、拳を照準に見立てる。ターゲットは、氷女沙夜。
 張りつめた時間。すっと息を吸い込み、そして鋭い眼光で沙夜の首筋付近を射る。その瞬間、沙夜の姿は瞳いっぱいに広がる。まるで拡大鏡のよう。集中した意識が、沙夜の姿を誇張したのだ。
「……行けっ!」
 小さな呟き。少年の左腕から、三本の荒縄が射出された。それはまっすぐに沙夜に伸びて行き――刹那、櫻が振り向いた。
「沙夜!」
 櫻は沙夜を突然突き飛ばした。突き飛ばされた沙夜は、由紀子が抱き止める。次の瞬間、突き飛ばした櫻の右腕には荒縄が巻き付いていた。櫻は、右腕を胸元へと引き寄せ、荒縄の先に視線をやる。
 少年と櫻の視線が絡み合う。由紀子に抱き止められた沙夜と由紀子は、心配そうに二人の姿を見つめる。分かったことは、少年が沙夜を襲った事。しかし、沙夜には見覚えが――。
「……あれ?」
 ないと思っていた。奇妙な感覚。確かに知らない少年だ。それなのに、知っているような気がする。芸能人の名前が出てこないような、気持ち悪さ。
「二人は橘家へ」
 櫻の言葉に由紀子が頷き、沙夜を引っ張っていく。櫻を置いていくことに抵抗を覚えたが、ここに残った所で、沙夜が出来る事は何もない――その事をすぐに察する。
 幽霊や悪霊には何度も襲われたことがある。悪意のある人間に追い掛け回されたこともある。しかしあの少年の瞳は、ただただ淡々としていた。何を考えているのか分からない瞳。それは、なおさら一層不気味に見えた。沙夜を襲った目的は? 沙夜の能力を知っていて襲ってきたのは、すぐに分かった。変質者なら、屋根の上から得体の知れない荒縄を放つなんていう離れ業はしてこない。いや、そういうダイナミックな変質者が世の中にはいるかもしれないので、それを全否定する事は出来ないが。どちらにしても櫻であれば、対応してくれる。櫻は、除霊士。妖(あやかし)と戦う――厳密には違うが、普通の人とは違う非日常に身を委ねている、現代の侍(さむらい)なのだ。
 沙夜の感じた、奇妙な感覚。それは、櫻も感じているものであった。どこかで見た顔。それに荒縄。知っているような気がする――そして櫻は、沙夜と違って相手が誰なのか、思い至った。
 雷鳴轟く中、両親を荒縄で串刺しにした兄。現実を受け止められなかった櫻の額を無慈悲にかすめて行った荒縄。荒縄――少年――荒縄――少年――兄――櫻の兄――藤堂晃!
 込み上げてくる怒り。その瞬間、櫻は荒縄がパチッと青い光を放ったのを観測した。電流――! 櫻は慌てて荒縄を切り落とそうとしたが、さすがに間に合わない。
「あぁ!」
 全身を走る電流。荒縄を通して、何かしらの方法で得た電気を叩きこんできたようである。膝を付く櫻。兄の顔が一瞬だけ見えた後、夕暮れに染まる空が見えた。そこで、櫻の意識は完全に霧散した。
 荒縄は、倒れた櫻の右腕からするりと離れて、少年の左腕へと戻って行った。そして、彼は由紀子と沙夜を追いかけた。
「追いかけてきた!」
 由紀子もそれに気付く。しかし、由紀子も沙夜も運動神経がとても残念。すぐに追いつかれるのは、自明の理だった。何か手段を講じなければ追いつかれてしまう。由紀子の焦り。それに対して、沙夜が感じていたものは不安だった。
 少年が追いかけて来たという事は、櫻の身に何かがあったという事。心配して、後ろを振り返る沙夜。そして沙夜の視線は、次に由紀子へと注がれた。このままでは追いつかれることは、沙夜にも分かっていた。追いつかれたらどうなるのか。由紀子の身にも危険が及ぶかもしれない。しっかりと握られた手。由紀子は優しい。沙夜を守るために、必死に走ってくれている。いつもそうだった。由紀子は、沙夜の手を引いてくれた。沙夜にとって、一番大切な人。そんな由紀子を助けるために、犠牲が必要となるのであれば――そんな考えが過(よぎ)った時である。
『諦めずに走れ!!』
 心の内から、そう声が響いた。沙夜の体からずるりと黒い影が姿を現し、人の形を取る。不気味な仮面と黒いマント。それは、『死神』とそのまま形容していい姿見であった。
「なにあれ?!」
 驚く由紀子に対して、沙夜は冷静だった。
「私の守護霊みたいなものです。あの人は、味方です」
 謎の黒い影。沙夜は、『死神さん』と称していた。かつてまだ能力が封印されていなかった頃、幽霊や悪霊に襲われた時、いつも沙夜を守ってくれた存在。その正体は、沙夜にも分からない。『死神さん』と称してはいるが、それは姿見がそうであるだけで、死神のような他者の命を刈り取る――そんなことをしているのを見たことはなかった。ただ、名前を教えてくれないため、『死神さん』と見た目から名付ける他、なかった。そんな死神さんを見るのは、四ヶ月ぶりの事。この櫻町に引っ越す事が決まった日に現れたのを最後に、姿を見せて来なかった。途中から櫻が沙夜を守っていたため、役目を失っていた――と考えるのが、妥当である。
「守護霊……とにかく、急ごう」
 状況を把握する時間がなかったため、由紀子は沙夜の情報を鵜呑みにした。沙夜は、死神さんが少年を止めてくれることを期待して、由紀子と共に走り続ける。
 死神さんは、武器まで死神準拠だった。大きな鎌を出現させ、屋根の上を走る少年の進路を塞ぐ。すると少年は、一本の飾りっ気のない短刀を取り出した。それを由紀子たちがいる方へと投擲(とうてき)。距離的に離れすぎているため、短刀は由紀子たちよりも随分手前側に刺さる。それに気を取られている内に、あっさりと少年は死神さんの頭をアクロバティックに飛び越えて行った。
『あっ!』
 着地した少年を追いかけようとしたその時、地面に刺さった短刀が光り出した。短刀を中心に出現する幾何学(きかがく)模様。その幾何学模様の陣から、一個の物体が湧いて出て来た。前屈の姿勢を取っているが、それは人型。両腕が異様に長く、大きさは二メートル弱はあるだろう。全身は光り輝いている。粘土細工のようで、頭部と思われる所には二つの光点のみ付いていた。その謎の人型は、死神の方へと顔を向けた。のっぺらな顔。人の顔だと口に該当する部分からぱっくりと開く。そこに集まる光を見た瞬間、死神さんは慌てて屋根から降りた。刹那、『ゴォ!』という激しく鼓膜を揺さぶる音と共に、眩い光が一直線に伸び、屋根の一部を吹き飛ばしながら、空へと延びて行った。
『なっ!』
 驚く死神さん。しかし、驚いてばかりもいられない。道路に降りてきた死神さんに対して、人型はゴリラが走るような格好で突っ込んで来ていた。死神さんは、舌打ちして鎌を構える。沙夜の事は気になるが、今は人型を迎え撃つしかなかった。
『沙夜……少し待っていて。コイツを倒したら、すぐにそばに行くから』
 雄たけびと共に、死神さんは鎌を大きく振るった。

 由紀子に手を引かれ、沙夜は橘家へ向かう。橘家は、この辺り一帯を管理している除霊屋である。除霊屋とは、『この世の理(ことわり)から外れしモノたちを調整する者』たちで作られた組織のこと。簡単に言えば、妖や幽霊と戦っている連中の事である。櫻は、橘家に属している。そして、橘家は九州の除霊屋を統括している。そこに逃げ込めば、さすがに少年も手は出せないだろう。
 幸い、少年に襲われた場所から橘家までは、走って二十分程度であった。沙夜は、由紀子に手を引かれながら、後ろを見た。気になる事がいくつもある。櫻はどうなったのか。死神さんはどうなったのか。そして、あの少年。どこかで見たことがあるような気がしていた。しかし、状況が状況であり、考えがまとまらない。
 とにもかくにも、今は橘家に逃げなければ――そう改めて思ったその時であった。少年が追いかけて来ていることに、沙夜が先に気付き、それから由紀子も気付いた。櫻も死神さんも退け、追いかけて来ている。沙夜は表情を強張らせた。もう、沙夜と由紀子を守ってくれる人がいない。橘家の石段はもう見えてはいる。しかし、少年の足の速さでは、ギリギリ石段に辿り着けるかどうか――その辺りまで逃げられるのが限界である。橘家には、櫻の姉である椿や、当主の勝彦がいる。その二人が偶然石段を降りて来ている――なんていう、都合のいい事でもない限りは、もう沙夜と由紀子に抗う術(すべ)がない。
「沙夜ちゃん、行って! 椿さんに!」
 ぐいっと引っ張られて、石段の方へと押しやられた。由紀子は、沙夜の代わりに殿(しんがり)を務めるつもりらしい。しかし、由紀子には何も力がない。ただの女子高生だ。痴漢も撃退できない、か弱い少女でしかない彼女に、少年を足止めする事なんて出来ようはずがない。それでも由紀子は、沙夜を逃がすために、その選択肢を選んだ。沙夜の事を思う、まっすぐな気持ち――それが、由紀子を突き動かしていた。そんな由紀子は、沙夜に心配をかけまいと、笑って見せた。ただ、不安と恐怖を隠すにはあまりにも脆(もろ)く、その笑みは逆に『もうどうしようもない』という悲壮感を与える程度の効果しかなかった。
 戸惑い。由紀子の言葉を受けて、橘家に走るか。それとも、由紀子の言葉を否定して、由紀子と共に少年と向き合うか。その僅かな逡巡(しゅんじゅん)さえも、すでに致命的。沙夜の目の前で、少年は由紀子を右腕で真横に吹き飛ばした。
 鈍い音。由紀子を殴打する音だ。続いて、由紀子は民家の壁にぶつかった。耳を塞ぎたくなるような、ゴッという音がした。壁を滑るように落ちていく由紀子。血痕が、その軌跡を描いていく。
 血の気が一気に引いた。
「由紀子さん!!」
 駆け寄ろうとした沙夜の右腕を、少年が掴んだ。万力のように強く絞められ、振り払おうとしても少年の体は打ち込まれた杭のようにびくりともしなかった。沙夜の動きは、そんな少年と言う名の杭に打ちとめられた、標本の蝶のようにぴたりと止まる。
 沙夜の心境が変化する。恐怖や不安な色を、怒りという色が染め変えていく。沙夜は、少年を睨みつけた。由紀子を助けるためには、この少年が邪魔だ。ならば、どうやってでも排除しなければならない。その力が、自分にはあると沙夜は自負している。そのためには、まずは能力を封印している鎮めの契りを外さなければならないのだが――次の瞬間、少年は、沙夜の体をそのままひょいっと担いだ。その担いだ様は、少年が磔(はりつけ)にされた様であり、沙夜は少年の腕、肩、首筋を真横に貫く木の棒のようになっていた。どうしようもなくて、沙夜は手をバタバタさせる。今なら鎮めの契りを外せるだろうが、沙夜の能力を使って少年をどうにかするには、少年の目を見なければならない。今の状況では、どうやっても難しい。
 少年はその恰好のまま、ぴょんぴょんと二回跳ねて、橘家へと続く石段まで下がった。まるで、何かから距離を取るように――沙夜は、その正体を目の当たりにした時、一瞬喜んだ。しかし、その喜びは一瞬にして霧散した。
 由紀子が立っていた。幽鬼のように。表情はまるで見えない。顔を上げて、大きく息を吸い込んでいる。
「生命危機を感知。敵対する存在を認識。種の保全のため、これより敵対する存在の破壊を行う。軛(くびき)、解放。同胞たちよ、我と共に奮起せよ」
 由紀子は、ブツブツとそんな事を言う。その瞬間、由紀子の足元に赤い光が燈った。見たこともない、不思議な紋様。それはクルクルと回り、回るたびにその勢いを増していた。
『オォオォォオオォォォオォォォォオ』
 それを人の声と称していいものか。由紀子は、闇夜に吠えた。赤い光が収束し、それは天高く伸び曇天(どんてん)を貫く。
 由紀子の瞳が、少年へと向けられる。すでにメガネは外れている。黒かった瞳は、血のような真紅の色合いを帯びていた。刹那、由紀子は踏み込んできた。まっすぐに――最速で最短距離。突き出された右手。少年は沙夜を抱えたまま、石段と反対側、道路側へと身をかわす。由紀子の右手は、舗装された道を粉砕し、その下の土を激しく巻き上げていた。とても人が引き起こせるような現象ではない。あれでは、鉄板に穴を開けるパンチングの機械のようだ。
「想定外の事態……」
 少年が初めて喋った。その言葉は非常に事務的で、焦りや緊張はなかった。
 避けた少年に対して、由紀子――変質した由紀子は、すかさず追撃を始める。振るわれた右手。その軌跡が赤いエネルギー波となって、地面を抉りながら少年に向かっていく。沙夜を抱えているため、少年も避けるしかない。橘家とは反対側、沙夜たちが走って来た方へと晃は避ける。
 変質した由紀子の圧倒的な力。両手を使えない少年は、その攻撃を避けながら、なんとか退路を確保しようと動く。変質した由紀子の力は、炎の属性を帯びていた。そのため、かすめただけで皮膚が焼ける。折角確保した沙夜を傷付けられては敵わないと、避ける動作も大きくなり、なかなか少年も上手く立ち回れていなかった。そして、少年に抱えられたままの沙夜は、激しく揺さぶられ、もう何が何だかすっかり分からなくなっていた。

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空白ノ翼第七章『覚醒予兆』 第二話『覚醒予兆前編』  その1 堕天王の逝く道/BIGLOBEウェブリブログ
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