堕天王の逝く道

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zoom RSS 空白ノ翼第三章『記憶に陰る赤』 第三話

<<   作成日時 : 2010/06/26 17:23   >>

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2010/06/26
加筆修正分に差し替え。他の話と違って、後半が別物になっております。大筋は変わりませんが、話している内容が違う。修正前を読んでくれていた方は、ここから読むといいかと思います。

2010/01/06
三話もまとめて修正したので、こちらも掲載しておきます。
これでひとまず第三章は終わりです。
第二話でも書きましたが、聡の記憶に一つの答えを導くまでのお話が、第三章でした。

最後に出てくる『美香』は、この物語の二大キーキャラの一人です。次の登場は、しばらくありません(笑。
この人の話が解決してしまったら、エンディング間近なんで。まだまだそんな所までは来ていません。
ちなみにこの人、全身性エリテマトーデスという病気ですので、分厚いカーテンを使っています。
膠原病です。
本当は肺がんとかにしようかと思ったけど、名前を聞いて『なんぞそれ?』と思うのがいいかというひねくれた思いから、この病気になりました。

さて、これで第三章が終わりますが、第四章は第三章と並行して進んでいた、いわゆるB面のお話になります。
聡よりも酷い状態になっている女の子、赤咲夕音(あかさきゆうね)。彼女は、記憶どころか感情も欠落している。それなのに、ゲームの腕は凄まじい。病院を抜け出して、ゲーセンをフラフラしている夕音と出会う、聡。そんな彼に襲い掛かるのは、夕音と同じ顔をした杜若(かきつばた)という女の子。夕音の幼馴染まで現れて、さらにややこしい事に。
聡と夕音が知り合い、お互いの事を少しだけ知るまでのお話が、第四章です。

では、第三話を。

以前の話は、
http://www5f.biglobe.ne.jp/~pfive/kuuhaku/kuuhaku.html

第一話 http://47762756.at.webry.info/200912/article_13.html
第二話 http://47762756.at.webry.info/201001/article_4.html

空白ノ翼第三章『記憶に陰る赤』
第三話 『一つの決着』

神山聡:記憶を失っている。琴菜と共に山の中腹にあるログハウスで生活している。
立麻琴菜:聡を助けた人。
坂田斎:聡の幼馴染。

――――――――

 胸騒ぎがしていた。気持ちが落ち着かない。外の様子が、いつもに比べて暗澹(あんたん)たるものに見える。何も手につかず、琴菜は白紙のキャンバスの前に突っ立っていた。時刻は、八時を回ろうとしている。同居人である聡(さとし)は、まだ帰ってきていない。麓の高校の体育祭に行くと言っていたが、体育祭がこんな夜まであっているはずはない。普通なら終わった後に、飲みに行っているのだろうと簡単に片付けてしまうことなのだが、そう考えても納得が出来ない自分がいた。
「なにやっているのよあの馬鹿……」
 近くの椅子を蹴り飛ばす。琴菜のやりきれない思いの表れだった。そんな折、電話が鳴った。琴菜はびっくりして、電話を見る。ここに来てから一度も鳴った事がない、年代モノの電話がジリジリとけたたましい音を立てている。実は、琴菜でさえこの電話の番号を知らない。調べれば分かるのだろうが、必要性がないため放置していた。そんな電話が鳴る。鳴るはずのない電話。それは怪奇現象のように思えた。
 電話は鳴り続ける。琴菜を急かすように。琴菜は意を決めて、重たい受話器を取った。
「もしもし……」
『もしもし、神山聡さんのご自宅で間違いありませんか?』
 女性の声だ。柔らかくてとても通る声。どこかで聞いたことがあるような――だが、思い出せない。琴菜は、静かに感情を押し殺して『そうですが』と答えた。
『櫻病院のものですが、夕方頃、神山聡さんがお倒れになりました』
「倒れた……?」
『でも安心してください』
 琴菜のショックを見透かしているように、相手はすぐ次の言葉を紡いだ。
『極度の疲労によるもので、現在点滴を受けて安定しています。明日の朝には、退院できると思います』
 疲労――。
 琴菜の心に、それは重くのしかかった。
『どうかご心配なさらずに』
 優しい声音を残して、電話は切れた。電話番号のこと、聡のこと、それを知っている相手に疑問を感じることもなく、琴菜はただ黒い受話器を握り虚空を仰ぐ。
「……私はやっぱり疫病神ですか」
 琴菜は、ポツリと呟いた。

 櫻病院の敷地内。消灯前であるため、まだ明かりが爛々とついている。その明かりの影になる場所で、携帯電話を彼女はポケットに入れた。闇夜にいつ溶け込んでもおかしくない、漆黒の髪と衣装に身を包んだ彼女は、とても美しい顔立ちをしていた。年の頃は、二十台の半ばかそれぐらい。丹念に作り上げた、工芸品のようである。彼女の瞳は揺れていた。その視線の先には、病室が一つ。
「自分がしてしまったこと、理解はしていたつもりでしたわ。でも、私は何も分かっていませんでした。これほどまでに、あなたを苦しめているなんて……そうよね、あの日、何もかもが終わってしまったのだから。先がない終わりは、悲しいことだわ。必ず、守って見せますわ。あなたがくれた優しさが、私をこの世界に導いたのだから」
 彼女は、足音も立てずに――まさに闇夜に溶け込むように姿を消した。この時、彼女は勘違いをしていた。今回、聡が倒れたことと彼女が言っている事は、関係が無いのである。しかし、聡が倒れた本当の理由を知っているものがこの場にいない以上、彼女の誤解が解けることはない。

 学校の保健室前で倒れた神山聡。彼は、近くの櫻病院に搬送された。CTを撮ってみたが、脳に病変はなかった。他の病気の可能性は、血液検査の結果を待たないと分からない。そのため、聡の様態はこれから先どう変化するのか、分からない状況にあった。ただ、バイタル――体温、脈、血圧に異常はなく、呼吸も乱れていないため、医師は過労の可能性を指摘していた。
 次の日の朝、聡は何事もなかったように目を覚ました。回りが見慣れない光景であるため、少しの間混乱したが、特有の造りからここが病院だと分かるのにそんなに時間を要しなかった。
「……なんで病院なんかに」
 思い出そうとするが、彼の記憶は学校に入ったところから途切れてしまっていた。そんな折、扉をノックする音が聞こえた。看護師が来たなら丁度いいと思いながら返事をする。しかし入ってきたのは、看護師ではなかった。
「起きていたんだ。気分はどう?」
 入ってきたのは、髪の長さが左右で違う不思議な髪形の女性。やわらかい笑みを浮かべている。女性は聡のことを知っている様子であったが、聡は彼女が誰なのか全く分かっていなかった。
「もう、いきなり倒れるからびっくりしたんだから」
 女性が近づいてくる。ほがらかな彼女に対して、聡は嫌な汗をかいていた。分からないのだ。どんなに考えても。向こうは明らかにこっちを知っている。信頼感さえ感じる。なのにこちらは思い出せない。
 適当に話を合わせるべきか――それが相手を傷つけない一番の方法だが、それは逃げているのと変わりはしない。得たいのは、はっきり言えば彼女のご機嫌ではなく、失ってしまった記憶そのものだ。
「どうしたの? もしかして、私どっか変?! それなりに気合入れてきたんだけど」
 聡は、覚悟を決めた。
「き、君は……」
 言葉が出にくい。喉が渇く。これほど嫌な思いをするものなのか。唾を飲み込み、不思議そうにしている女性を真正面から見据えた。
「君は誰?」
 彼女の表情が凍りついた。でも彼女は気丈だった。笑顔を無理矢理取り繕う。
「何真剣な顔をして、馬鹿なこと聞いているのよ……」
 だが、彼女の気丈さは長くは持たなかった。聡の表情が、すべての答えだったからだ。
「……聡の馬鹿!! 私のこと忘れちゃうなんて、くたばっちまえ!」
 大声をあげ、ベッドを蹴る。その威力は凄まじく、ベッドが引っくり返りかねないもので、思わず聡は柵にしがみついた。そうしている内に、彼女は部屋を出て行った。
 このままではいけない。
 聡は、慌ててベッドから下りる。しかし足が完全に覚醒していなかった。よろめき、扉に顔から突入する。
「いってぇ〜〜〜〜!」
 病院は意外に頑丈だったらしく、聡の体当たりを受けても扉は壊れなかった。扉が壊れなかったということは、ダメージが全て聡に跳ね返ってきたことを意味する。トナカイのように鼻が真っ赤。ついでに額も真っ赤で、涙目の聡。しかしここでめげるわけにはいかない。聡は、病室を出た。
 病室を出ると、ばたばたと看護師が二人走ってきていた。あれほど大きな音をたてれば、仕方がない話である。
「どうしたんですか!」
 ここで彼女達と関わっている暇はない。どうすべきか迷っていると、一陣の風が吹いた。そう、それは風と呼ぶしかなかった。次の瞬間、走り寄って来ていた二人の看護師が倒れ、その場にあの聡に戸籍謄本を持ってきた謎の女性が立っていた。相変わらず、不気味なほどに笑顔を保っている。
「あの子は、エレベーターに向かいましたわ。そこの非常階段から先回りが出来ます。ついてきてください」
 なぜ彼女がここにいるのか、質問している時間はないようだ。彼女は、看護師たちがやってきた方向とは逆に走り出し、非常扉を開けた。この非常扉は、外に出るものではない。普段看護師たちが使っている、関係者用の階段だ。
 飛ぶように階段を下りる。全速力で降りる聡であるが、優雅に降りていく彼女との差は全く縮まない。さきほどの看護師を瞬く間のうちに眠らせた技量といい、なにもかもが人間離れしている。そんな彼女と聡に、どんな接点があるというのだろうか。その答えも、今は分かりようがない。
 非常階段を降りきる。重たい扉を開けて出た先は、放射線科の前だった。慌てた様子で飛び出してきた二人を、順番を待つ患者達が不思議そうに見ている。
「こちらが玄関ですわ」
 まっすぐ右側を指す。ここからでも、彼女が指差した先がロビーになっていることがわかった。
「すまない」
 聡が礼を言うと、彼女はいつもの笑みを絶やすことなく、軽く手を振っていた。
「頑張ってくださいね」
 頷き走り出す聡。ふと気になり後ろを見てみるが、そこにはもう彼女の姿はなかった。
 ロビーに出て、周りを見渡す。結構人がいる。だが、そこにあの特徴的な髪型を見つけることは出来なかった。もう外に出たのかもしれない。玄関のほうに視線を向けた時、ガラス張りの自動扉の向こう側に、いまだに走り続けている特長的な髪形の彼女を見つけることが出来た。聡は走り、自動扉が開く時間も惜しんだため、隙間に体を潜り込ませて外に出た。
「待ってくれ!!」
 彼女は、あまり足が速いほうではなかったため、彼女の前に回りこむのは容易だった。しかし、それは大きな誤算だった。彼女は、スピードを緩めるどころか加速してきた。
「うおっ?!」
「どりゃーーーー!!」
 加速を活かしての飛び蹴り。聡は慌てて屈んでそれを避ける。さきほどの病室の蹴りといい、なかなか暴力的な性格をした人物のようだ。あんなのをまともに受けたら、今度はそう簡単に病室から出ることができなくなるだろう。
「頼む! 話を聞いてくれ!」
 右手の平を突き出して、彼女に懇願する。彼女の瞳に宿る色。それは怒り、悲しみ、そして絶望のようであった。
「ずっと待っていた! アンタとの約束を信じて! それなのに……なのに……!」
 彼女の怒りは、それはもう命の危機を感じるほどである。心が痛む。今更ながら、あの時選んだ選択肢を悔やんだ。
「話を聞いてくれ……!」
 聡は、その場で土下座した。もうプライドにこだわっている場合じゃない。それを見た彼女は、一滴の涙を流した。その表情は、果てしなく冷たい。
「話てなによ。私馬鹿みたい……アンタなんかの言葉を信じて四年も待っていたなんて」
「……記憶がないんだ」
「はぁ?」
 唐突な言葉に、彼女は話についていけていない。
「俗に言う記憶喪失なんだ俺。名前以外何も思い出せねぇ……君の事だって、思い出したくても思い出せないんだ……!!」
 記憶がないことをこれほど悔やんだことはなかった。聡は、怒りと共に拳を地面に叩きつけた。拳から溢れた血が、大地に色を付ける。
「でも、あの時名前を呼んだじゃない」
「あの時?」
 彼女が何の話をしているのかが分からない。
「ほら、保健室の前、アンタが倒れる前よ」
「……すまん、学校に入ってからの記憶がないんだ」
 彼女はしばらく考えていた。聡は、土下座の格好で固まっている。顔を上げて、彼女の顔を見る勇気がなかった。
「そんな馬鹿な話ないよ……」
 涙を乱暴に拭った彼女は、ポツリとそう呟いた。
「ゴメンナサイ。今はちょっとダメみたいだから」
 その後、『夕方五時、海の家で』と残して彼女は走り去っていった。
 彼女を見送った後、病院に戻ろうとすると、例の黒髪の彼女が『手続きは全て私にお任せください』と言い、聡を中に入れなかった。そう言われてしまっては、聡としては反論も出来ない。仕方なく帰ることにした。
 帰る前に虹野印刷に顔を出すと、社長に頭を叩かれ、夏樹には目の前で大泣きされた。それをなだめるのに苦労しながらも、聡は自分のために涙を流してくれていることを嬉しく思っていた。その後、夏樹の家で電話を借りて由紀子に連絡を入れた。由紀子は、淡々としており、どこか呆れているような感じだった。だが、『頑張り過ぎないでよね』というたった一言の労いの言葉が、彼女の気持ちのすべてを表していた。
 一通り挨拶を終え、家に帰ろうと山に差し掛かった時、ふと聡は空恐ろしい思いに駆られた。本能が山を登ってはいけないと訴えかけている。だからといって、ここで回り右をするわけにもいかない。今のところ、住む所はあそこしかないのだ。
 ログハウスの玄関前。聡は、悩んでいた。元気よく何事もなかったように入るか、それともこそこそと進入するか。さきほどの斎の時は、選択肢を明らかに間違えた。今日は、できればこれ以上のトラブルは避けたい。
 聡は、覚悟を決めた。
「ただいま」
 結局聡は、どちらでもない第三の選択肢を選んだ。変に演技しても、琴菜に通じるはずがないと思ったからだ。『おかえり』という返事はない。台所にはいない。奥の個室に通じる扉は閉ざされている。琴菜は、半分以上彼女の作業場と化しているリビングにいた。白紙のキャンバスに向かい合って、聡のことを気にかける様子もなく黙って座っている。異様なオーラが漂っていた。聡は、平常心だと呟きながらも、かなりビクビクしていた。
 聡はとりあえず何事もなかったように、奥の個室を目指した。触らぬ神に祟りなしである。ドアノブを握って力を込めようとした時、琴菜がついに口を開いた。
「疲労で倒れたらしいわね」
 何のことか一瞬分からなかった。少し考えて、自分が倒れた原因が『過労』であったことを思い出す。琴菜には、『疲労』と伝わっていたようだ。
「……正直分からない。気づいたら疲労で倒れたということになっていたが、俺はそこまで疲れていなかった。それに、学校に入ってからの記憶がない。なぜ倒れたのか、俺にもさっぱりなんだ」
 聡は、正直に現状を話した。琴菜は、聡が記憶を失っている事を知っている。そして、憶測であるが過去の聡の事も知っている。彼女に嘘の情報を与えても、何の意味もない。
 琴菜は、黙ってその話を聞いていた。ちらりと様子を伺う聡であったが、無表情の彼女から得られるものは何一つなかった。
「昔々あるところに、貧乏なジジババがいました」
 突然語りだした琴菜。いよいよ持ってわけが分からない。
「ジイさんは山に人狩りに、バアさんは川に水死体を探しにでかけました」
「ちょっと待て。おかしいだろう、それ?」
「知らないの? 日本残酷物語」
「知るか! てか、勝手に作るなよ!」
 琴菜は、無表情で聡のほうを向いた。
「無知は愚かね」
「今の本が絶対にあるて言うんだな! じゃ、探してきてやるぜ! なかった時は……」
「裸踊り決定ね」
 びしと指差され、聡は思わず顔をしかめた。これはもしかしたら本当にあるのかもしれない。聡は、嫌な汗を掻きながらも『あ、あぁ、見てろよ』と強がるので精一杯だった。
 自室に戻った聡は、ふと妙な気持ちになって天井を見上げた。
「あれ?」
 心につかえていたものがなくなっている事に気付いた。そこで聡は、さらに気付いた。自分が倒れたことを一番知られたくなかったのは、琴菜である。その琴菜がもう倒れたことを知っていたが、意外にあっさりとしていて――琴菜に心配されるのが嫌だった事実が、聡には意外なものだった。
「……でも、なんだろうか。琴菜の奴……」
 琴菜はいつでも無表情だ。その彼女の心の機微を推し量るのは難しい。だから、聡も確信は持てなかったが、先ほどの琴菜はどこか妙であったように思えた。一つ溜飲が下がれば、また一つ引っ掛かる。
 聡は、髪をシャカシャカと掻いた。

 琴菜は、自室に戻っていった聡の背中を横目でじっと見ていた。その後姿が見えなくなり、彼の部屋の扉が閉まる音が聞こえてから、ぼそりと呟く。
「……意外に元気そう」
 視線を白いキャンバスへと戻す。何を描きたいのか、それはもう決まっている。だが、その形が見えてこない。だから、このキャンバスは白紙のまま。琴菜はそれを見るたびに、まるで自分の心のようだと笑う。
「ずるずると結論を出せないまま、縋っているなんて。私、そんなに未練がましい性格だったかしら。でも……もう少し……別にいいでしょ。一生分の不幸は背負ったんだから、これぐらいは……」
 白いキャンバスの両端を持ち、顔を下げる。その両手は、こめた力のせいか、それともまた違う要因なのか、静かに震えていた。

 櫻病院の院長室から出てきたのは、謎の女性。世の中、都合の悪いものに蓋をしたり、変えてしまったりすることは簡単なこと。彼女にとって、それは食事をするかのように自然と出来てしまう事であった。
 院長室を出て、裏の職員口から病院を出る。謎の女性はそこで足を止めて、病院を見上げた。彼女の視線の先には、カーテンが締め切られた病室があった。
「……因果とは不思議なものですわね。でも、残念ですが今の彼を彼女に会わせるわけには行きませんわ。恨まれる事には慣れておりますもの」
 謎の女性は吹っ切るように背を向けて、黒いスポーツカーに乗り込んだ。

 約束の時間が迫っている。聡は着替えて外に出ると、琴菜が切り株に座って空を眺めていた。相変わらずの無表情である。
「また出かけるの? 忙しい人ね」
 ドアの音で分かったのだろう、琴菜は背を向けたまま話しかけてきた。
「やっと見つけたんだ。俺を知っている奴を」
「そう」
 琴菜の返事は、やはり素っ気ない。
「夕飯は? いるなら作っておくけど」
 意外な言葉が返ってきた。きょとんとしていた聡であったが、すぐに笑顔を浮かべた。
「そうだな、お願いしていいか?」
 話次第では、ここにいる必要はなくなる。だが、ここを出て行くのは、行く宛てがちゃんと決まって、彼女に礼を言ってからだ。なにも焦る必要はない。それにあの面倒臭がりの琴菜が、料理を作るという。それならば、断る理由などどこにもない。
 聡は、山を降りた後喫茶店『海の家』を訪れた。喫茶店のオーナーが斎の名前を覚えていたことから、ここが昔から使っていたたまり場であったことは予測できていた。店に入ると、とりあえずオーナーにコーヒーを頼む。オーナーは、意味深な笑顔を浮かべていた。その笑みが語るように、聡の事を知る女性はすでに来ていた。前、由紀子たちが座っていた丸テーブルに座っている彼女は、少しだけはにかんだ。
「少し待ったか?」
「そんなことないわよ」
 聡が席に座ると、斎は複雑な表情でコーヒーを一口含む。どう切り出したらいいものか。聡が考えていると、斎が前髪を掻きあげながら大きなため息を吐いた。
「……色々と考えた」
 その声音の重さ。言葉の続きを、聡は緊張した面持ちで待つ。彼女が話してくれないと、頼みの綱が消えてしまう。そうなれば、過去の事を知るのが難しくなる。彼女は、どんな答えを導き出したのか――。
「アンタが私を欺いている可能性、本当に記憶喪失の可能性、本当に忘却してしまった可能性……」
 そこで斎は、苦笑した。馬鹿らしい、そんな顔だった。
「でも、結局答えなんて最初から一つだったのよね。私はあの時、土下座するアンタの言葉を、必死で訴える聡を、信じていたんだわ」
「俺が記憶を失っていること、信じてくれるのか?」
 彼女は、にっこりと笑った。
「えぇ、聡だもん」
 その一言に秘められた思いは、計り知れないものであった。
「聡が記憶喪失なんて、泣くべきなのか喜ぶべきなのか」
「どういうことだ?」
 そこでオーナーがコーヒーを持ってきた。彼女は、それ以上語ろうとはしない。仕方なく、コーヒーを一口飲む。
「甘党の聡が、素で飲んでる……」
「最初にコーヒーの味を確かめているんだ。昔はしてなかったのか?」
 コーヒーに、砂糖とミルクを入れる。美味しいとはいえ、やはり素で飲むのはきつい。
「聡がそんなハイカラなことするわけないじゃない」
「……ハイカラてなんだ」
「この鋭い突っ込みの角度。やっぱり聡は聡だ……」
 しみじみと言うその言葉には、深い悲しみがあった。
「そういえば私の名前、言ってなかったわね。私は、坂田斎(いつき)。家は、聡の実家の隣で、物心付いた時から一緒よ。まさに絵に描いたような幼馴染って奴。う〜ん、しかし聡相手に自己紹介って、なんか妙な感じね。ちなみに、恋人は募集中です」
「……坂田斎……か。なんだろう、その名前を聞くと、こう……そうだ、面倒ごとになりそうな気がしてならない」
「どういうことよ!」
 テーブルを叩いて乗り出してくる斎に、聡は抑えて抑えてと両手で宥める。
「いや、待て待て。記憶喪失なんだから、そんなの聞かれても分からん」
「えぇー、なんだか一瞬でも聡を信じた私が愚か者だったという気分になってきたんだけど。本当は、覚えているんでしょ? そうやってからかって、馬鹿にしているんでしょ?」
 疑いの流し目を受けて、聡は苦笑いして否定する。
「マジだって。あの時も言ったろう? 『思い出したくても思い出せない』って。本当に、君の事を思い出せなくて、申し訳なく思っているんだ。今まで記憶を失っている事を、深く考えた事はなかったんだが……忘れられるってのは、何よりも辛いよな」
 今でも、斎に向かって『君は誰?』と問いかけたことを後悔していた。もっと、上手な切り出し方があったにも関わらず、自分の目的を優先させて、相手の気持ちを考えなかった。
「別にいいよ。私は、聡がこの町に帰ってきて、こうやって話ができているだけでも、十分幸せなんだから」
 斎はそこでふと緩んでいた顔を、引き締める。頬が微妙に赤い。
「私、素で恥ずかしいこと言っているよね。嫌だなぁ、軽く聞き流しといてね。今の私、聡が帰ってきてくれたことの嬉しさで、半分壊れ気味だから。ううん、九割ぐらい壊れているかも」
 斎の言葉、動作一つ一つがとても懐かしく感じる。
 斎が、一口コーヒーを含む。それが彼女なりのケジメだったのだろう、持ってきていた大きな紙袋からアルバムを一つ取り出した。取り出したアルバムは薄いピンクのもので、明らかに個人用であった。紙袋の中には、あと三つほど入っている。装丁から見て、学校のアルバムが二つに個人用があと一つといったところだろうか。
「とりあえず、今後昔の知り合いに『君は誰?』なんていう暴言を吐かないよう、アルバムを貸し出しますので、しっかり顔を覚えて最初は話をあわせましょう。私でも相当のダメージだったのに、これが倉斗君だったら首くくりかねないからね」
「了解。本当に、悪いなぁ」
「あぁ、そだ。先に聞いておこうかな」
「ん?」
「聡さ、今から昔の知り合いを紹介して行くけど、すぐに会いたい? 一応、連絡先は知っているけど。それに、記憶喪失であることも、皆に話す?」
 聡は、まったくその事については考えていなかった。正直、どうしたらいいのかが分からない。聡の困っている姿を見て、斎も察した。
「私はね、今すぐに会わなくてもいいし、記憶喪失のこともね、明かさない方がいいんじゃないかなって、思ってる。いつ戻るか分からないわけだし、記憶が戻った時でも会いに行くのには遅くないと思うよ」
 斎は、顔を下げた。取り出したアルバムを開けたり閉めたりして、どこか落ち着かない。斎が何を考え、何を言おうとしているのか、まったく想像が付かない。かける言葉も思いつかず、どうしたものかと聡も悩む。そうしていると、斎がぼそりと小さな声で呟いたのが聞こえた。
「ただでさえ、聡は行方不明扱いなんだから」
「俺が……行方不明……?」
 記憶喪失の次は、行方不明と来た。もう、何がなんだか分からない。だが、聡はその行方不明に関して、引っ掛かる事があった。そう、就職先が決まったとき、戸籍謄本を持ってきたあの女性についてだ。
「ちょっと、待て。俺が行方不明って、俺の戸籍がある場所を知っていた奴がいたぜ」
「……それについては、私には分からないよ。聡は、私たちの中ではそういう扱いになっているという話。もし、聡に記憶があったなら、行方が分からなくなった間に何があったのか、聞きだすつもりだったんだから。皆、ただでさえ今でも心配している。それなのに、『俺、記憶喪失!』なんて言ったら、胃に穴が開くわよ」
「そ、そうなのか」
「私としては、皆に会うのは記憶が戻ってから。もしくは、皆に会っても以前の通り振舞える自信が出来てからにして欲しい」
 斎は、きっぱりとそう言った。事情が分からない聡に、彼女の言葉を否定することはできない。静かに頷いた。
「分かった。君の言う通りにする。俺の過去については、君から聞けば良さそうだし」
 複雑な表情の斎。その顔が、聡には意外だった。まるで、自分の口からは話をしたくない、そんな風にも見えたからだ。
「……ごめん、『君』なんて言われると気持ち悪いから、昔みたいに『斎』と呼び捨てにしてくれない?」
 まるではぐらかすかのように、そんなことを口にする。自分の記憶に、そんな口にもしたくないようなことがあるのか。聡は、急に不安になった。二人の間に、重い空気が広がる。
「あぁ、もう!」
 斎は、突然そう言って自分の額をぺしりと叩いた。
「私の馬鹿! なんか余計な事ばかり口にしてる気がする! 聡、本当ごめん! なんだか、物凄く不安な気持ちになったよね」
「あっ……いや、なんだ、あまり気にしないでくれ」
「そういう時は、否定しないでよろし! 聡は、顔に出るんだから、どうせばれるのよ」
 聡の顔をびしりと人差し指で指す。聡は、この人には敵わないかもしれないと、苦笑いを浮かべた。
「聡の昔の事は話す。でもね、私にだって聡に話したくないことはある。忘れたままでいいことまで、話すつもりはないし、私は話したくない。それでいい?」
「それでいい」
 聡は即答した。聡も、辛い過去を今知りたいとは思わない。ただ、自分がどんな風に生きてきたのか――それだけ分かればいい。もし、その辛い過去が必要になった時は、斎に頼めばいいことである。
「ありがとう。ゴメンネ、わがままばっかりで」
 長い方の髪をいじりながら、斎は申し訳なさそうである。
「俺だって、辛い部分は今必要としていないからさ。あ、そうだ。これだけは確認しておかないと、アレだな」
「ん?」
「就職活動を最近までしていたんだが、俺の名前と顔を見て、話を切り上げる所があまりにも多くてさ、俺ってもしかしたら犯罪者なのか……そんなことまで考えちまって」
「あぁ……その部分、一番喋りたくない」
 聡の顔が強張る。
「……マジで、俺犯罪者? 前科持ち? 脱獄した極悪人とか、そういうオチ?」
「まっさか」
 斎は、ケラケラと笑っている。
「喋りたくないのは、聡には必要のないことだから。簡単に説明すると、聡はある事件で逮捕されて、裁判で有罪がほぼ確定していた事があってね、でもさ、実は冤罪でね、だから聡は何もしていない。捕まった時は大々的にニュースで取り上げられていたけど、冤罪となるとメディアもそんなに取り上げなくてね、聡のことを犯罪者だと思ったままの人がいる、そういうことなのよ」
「おぉ、なんだか波乱万丈だな。ちと詳しく聞きたいところもあるが……」
「ダメ、これ以上は口にしたくない」
「了解。知っていても、面白くなさそうだしな」
「他には?」
 一つ、これで解決した。他に知りたいことは――聡は、天井を見上げて考える。今分からない事は、あの謎の女性のことについてぐらいか。夢の話はしてもしょうがない。琴菜のことは、何となくであるが話すとろくな事にならない気がしたので、話題にはあげないでおこうと決める。それと、左の薬指のプラチナのリングに付いても聞かないほうがいい気がした。そうやって項目を消していくうちに、斎の話を聞いてからでもいいような気がしてきたため、聡は顔を戻した。
「とりあえず、話を聞くわ」
「よし、じゃ話すわね。むかしむかし、神山聡という子がおってのぉ」
「えっ? そんな切り出しなのかよ」
 しばらくの間、斎の話に耳を傾けた。

 聡は、この櫻町で生まれた。家は櫻町の北部で、斎が先に話していた通り、彼女とは家が隣同士であった。
「ウチは両親共働きで、聡の所は父子家庭でね、だから私たちは保育園組み。親がいない時は、いつも一緒にいたんだから」
 聡は、とてもやんちゃな子供だったとのこと。毎日が、とても輝いていたと斎は話す。
「小学生の頃には、友達も増えてね」
 斎は、アルバムを繰る。
「あの鏑木グループのお嬢様である、郁子。その友達で、両親共に医者の流鏑馬久留里。岡島倉斗に雨見麗。だいたい、このメンバーでつるんでいたかな」
 写真を指差しながら、斎は話を進めていく。
「なんだか、可愛い子が多いな。俺、超モテモテ?」
「あはは、思い上がるなよ、サル野郎」
「……すんません」
 笑顔であったが、悪魔のように恐ろしくて聡はすかさず謝っていた。
「中学になってからは聡は陸上部に入って、私はマネージャー。馬鹿みたいに毎日走っていてさ」
 聡が走っている写真を何枚も見せてくれる。
「結構速かったのよ」
「そうなのか」
「高校も陸上部。学校は、そこの櫻高校ね。この頃、沢村遙っていう子と知り合ってね。あ、写真はないか。絵に描いたような、やさぐれっぷりだったから、聡と何度殴りあったことやら」
「どんな知り合いだ、それ」
「そうね、敵と書いて『ともだち』と読むような仲だったかな。悪い子じゃなかったんだけど、家庭環境がもうね、致命的で。暴れて、警察に連れて行かれて、親が迎えにくるのを待っているんだけど、いつも来るのは代理の人。いつかは親が迎えに来る。そんな理由で、暴れまわってたのよ。聡にぶん殴られてからは、少しは大人しくなったけど」
「そこは話していい過去なんだな」
「遙ちゃんとは私も聡も相当仲良かったし、彼女、まだこの櫻町にいるのよ。一番、遭遇率が高いんだから、話しておかないと大変なことになるんだから。町中で大泣きとか、されたくないでしょ?」
「うっ……それは避けたい。そうだ、最初の頃に出てきた人たちも、この町にいるのか?」
「倉斗と麗は、市内にいる。そう簡単に遭遇することはないと思うよ。郁子と久留里は、京都にいるから。お盆とか正月とか、帰省している時にだけ気をつけてれば、問題ないわね。だから、遙ちゃんは要注意。写真がないからアレだけど、顔立ちが日本人っぽくないし、瞳がダークブルーだから、目立つ容姿の人は注意ね」
「日本人っぽくない……ハーフなのか?」
「ご名答。聞いた話だと、母親がイタリアの人だって。そうそう、沢村探偵事務所という所の所長さんだから、近づかないこと。飛山団地と病院の間だし、櫻町の北部は近づかない方がいいわね。家は確か平坂だったかな。だから、西側もデンジャーよ」
「……あ、俺、もしかしたらその人……会っちゃってるかもしれねぇ。足、速くないか、その子?」
 体育祭でアンカーとして待機している時、平坂のアンカーの特徴が斎の話している内容に酷似していることに気付いたのだ。
「あ、体育祭」
 斎も気づく。
「そうそう、もしかして平坂のアンカーだったんじゃねぇ?」
「もしかしてもなにも、その子が沢村遙よ。あの子、気付かなかったんだ。良かったわね、聡。あの場所で大泣きされるところだったわよ」
「顔は把握した。気をつける」
 実際に話してみないとどんな子か分からないが、公衆の面前で大泣きされるのだけは避けなければならない。
「さてさて話を戻して、高校卒業後は、聡は就職。私は大学進学」
「なんの仕事だったんだ?」
「映像関係のお仕事」
 斎が妙な顔で笑っている。聡は、すぐに気付いた。この言葉は遊びだ。聡をからかって楽しんでいる。記憶がなくても、それぐらいは分かった。
「わざといかがわしい職業に聞こえるよう言っているだろう?」
「本当のことよ。聡のおじさんが、市内にあるテレビ福岡という所でディレクターをしててね、聡はその人の所で働いていた。一年ぐらいして、リポーターとしてテレビに出てくるようになった時は、驚いたわ。あ、だから自分の過去を調べる際、そのリポーターだった頃の事を調べるのは、覚悟した方がいいよ。聡が冤罪になった事件、そのリポーターの頃の話で、割と聡、人気があってさ、大きく取り出されちゃったからすぐに分かっちゃうよ」
「……そっか。それで顔が割れまくっているのか。俺が、リポーターねぇ……」
 自分がテレビに出ている姿なんてものは、まるで想像がつかない。全く実感も出来ないし、リアリティがない。斎の作り話だとカミングアウトされても、あっさりと信じてしまえそうな、そんな空虚さがあった。
「本当、人生どこでどう転ぶのか、分からないわね」
「で、リポーターになって、それから事件に巻き込まれた後、どうなったんだ?」
「事件に巻き込まれる前に、聡は『俺は、現地に行って俺の出来ることをする!』とか息巻いてアフガニスタンに行って、それっきり。今が2005年で、アレが2001年だから四年前ね。それ以降のことは、テレビでしか知らないから。聡、出所した後、戻ってこなかったし」
 とても悲しい表情をしたかと思うと、斎はすぐに明るく笑って見せた。
「色々と聞きたかったけど、記憶がないんじゃ仕方がないよね。私、聡が戻ってきてくれただけで、それだけで十分」
 真正面からそう言われて、聡も気恥ずかしくなり『そうか』とだけ答えるのが精一杯だった。気付いたらコーヒーがなくなっていた。空になったカップの底に残る、コーヒーの雫。聡はふと、その雫が今の自分が持っている記憶のように思えた。本来ならカップ一杯に入っていたはずの記憶。どこで零してしまったのか。残されたのは、僅かな雫だけ。このカップが、再び満たされる時は来るのだろうか。
 自分の生きてきた足跡。それを聞くことで何か――例えば、斎のことについて思い出せたりするのかと淡い期待を抱いていたが、そんな事は全くなかった。まるで、他人の過去を聞かされているかのような、そんな実感のなさだけが残る。それでも得ることはあった。
 謎の女性と出会ったのは、夢が正しければアフガニスタンであろう。あと、小泉由紀子と出会った時、『茜』という人の姿を垣間見たが、そのことは斎は知らないようである。琴菜のことも。知っていれば、話してくれたはずだ。
 残り分かっていないのは、斎の知らない空白の四年間のみ。斎の話からだと、その空白の四年間を知る手がかりは彼女にはなさそうである。
「聡、もうどこにも行かないよね」
 斎は、視線を逸らしたままである。その横顔は、聡の記憶を揺さぶった。だが、結局は何も出てこなかった。それでも、斎にはこんな表情は似合わない。それだけは分かった。
「あぁ、ずっとここにいる」
「信じてあげる。これで、最後だからね」
 斎は、ようやく顔を向けて切なげに微笑んだ。『最後』という言葉が、やけに重たく聞こえた。
 その後も斎と色々と話をした。斎が、櫻高校で教師をしていることを聞き、聡は虹野印刷に勤めている事を話す。すると虹野印刷の一人娘、虹野夏樹は、斎が受け持っているクラスの子で、さらに斎は陸上部の顧問だという。意外な接点に驚いたり、昔を懐かしんだり、聡と斎は幸せな時を過ごした。
 帰り際、斎を送っていくついでに、聡の実家を教えてもらった。時刻は、二十二時を回っている。他の家には明かりが燈っているが、聡の実家だけはリビングだけに明かりが燈っているだけで、二階は真っ暗。どこか、暗い印象を与えた。表札は、確かに『神山』と書かれてある。
「ここが俺の家か」
「今も聡のお父さんと……あ、言い忘れてた。聡が高校三年生の時にお父さん再婚していてね、今も一緒みたいよ。あれ? なんか忘れている気が……」
 しばらく悩んでいた斎であったが、『まっ、思い出せないなら大した事じゃないのよね』と諦めた。
 家を見上げる聡。斎は、彼の後ろで様子を伺っている。
 なんの感情も湧いてこない。聡にとって、この家は他人の家同然だった。本当に自分の家なのか――だが、斎が嘘をつくとは考えられない。
「聡」
 五分ほど過ぎただろうか。動きを見せない聡の名前を、斎が呼ぶ。『ん?』と返す聡に、斎は言った。
「聡にとって、この家での生活はいいものじゃなかった」
「……そうなのか」
「聡はいつもお父さんと喧嘩していて、でも聡真面目だから、お父さんを許そうと頑張っていた。でも、お父さんが再婚して……」
「そっか」
 最後まで聞く必要はなかった。この家は他人の家同然ではなく、もう他人の家なのだ。家から視線を逸らし、横を走る道路を見つめる。少し記憶が戻ってきた。雨が降る中、聡はこの家を後にした。
 熊のぬいぐるみを抱えた――。
「……っ!?」
 突然頭痛が走った。
「どうしたの?!」
 斎が慌てて聡を支える。聡は脂汗をかきながらも、自分を支える斎の手を優しく叩いた。
「……もう大丈夫だ」
 記憶はまた消えてしまった。だがこの家を後にした時の気持ちだけは、心に残っていた。
「過去に縛られる必要なんてないから。過去の記憶がなくても、聡はこうして生活できているじゃない」
 一つ間を置いて、斎は言った。
「前を向こう。後ろを向いていじいじしている聡なんて、らしくない。がむしゃらに突っ走ってこそ、聡よ!」
 聡は笑った。家の前であるため、押し殺した笑い。声が上がるのを必死に抑えている。
「斎、君と再会できて本当に良かった」
 ひとしきり笑った後の聡の言葉に、斎は顔を真っ赤にする。
「な、なに言っているのよ。恥ずかしいこと言わないでよ」
 斎の言葉を聞いて、聡は心を決めた。自分の過去で分からない事はまだ多い。だが、その事ばかりに気を取られていては、前に進めなくなってしまう。ある程度の過去は、知識としてだが得る事ができたのだから、これからの身の振り方というものを今一度考えなければならない。
「そういえば聡は、今どこに住んでいるの?」
「行き倒れている所を助けてくれた人がいて、今、その人の所に厄介になっているよ」
 琴菜のことは、出来るだけ触れないようにする。琴菜とは何でもない仲であるため、下手に勘違いされても鬱陶しいだけだからだ。
「そう……なんだ。でも、今住む所があるなら、無理してこの家に戻る必要はないと私は思うよ」
「そうだな」
 今日は、一旦帰る約束を琴菜にしている。だから聡は、実家に戻ってみるという選択肢を選ばなかった。
「一旦、今住んでいる所に戻るよ。これからのことは、今すぐに決めなければならないというわけでもないしな」
「うん、その方がいいよ」
「今日は、本当に色々とありがとうな。助かったぜ」
「幼馴染だもん。当然、当然。じゃ私、そろそろ帰るね。今度は、飲みに行きましょう」
「おう。またな」
 斎を見送った後、最後にもう一度自分の家を見上げて、そして背を向けた。

 斎と話している聡。背を向けて歩いていく聡。それらをじっと見つめている者がいた。聡の実家の二階。カーテンが締め切られた、電気も点けられていない部屋。そこに、中学生ぐらいの線の細い子が、熊のヌイグルミを抱えてじっとカーテンの隙間から外を窺っていた。彼女の左腕は、包帯で覆われている。
「意外に早くここまで辿り着けたけど、坂田さんと会わせて良かったの? 記憶が戻ったら、計画に支障が出るんじゃないの?」
 室内には、彼女しかいない。それは独り言のように思えたが――。
『そもそも彼の記憶は、君の記憶以外、我が所有している。ないものが戻るはずがない』
 虚空に響く声は、彼女の耳にしか届いていない。
「そう」
 つまらなさそうに呟いた後、彼女はカーテンの側から離れていった。

 自室に戻ってきた斎は、そのままベッドに飛び込んだ。天井を見上げ、左の手の平をかざす。斎は、聡の左の薬指にはめられていたプラチナのリングのことに思いを馳せていた。
「……あの指輪、やっぱり結婚していた証なのかなぁ。それとも現在進行形? う〜ん……」
 聡が話を振ってこなかったため、斎も聞くに聞けなかった。四年前、聡に言われた事が脳裏をかすめる。
『斎、俺……帰ってきたら、大事な話があるから』
 アフガニスタンへ旅立つ前日、聡はそんなことを斎に話していた。結局、彼の『大事な話』を聞くことは出来なかった。斎としては、高確率で恋人になってくれとか、飛び越えて結婚してくれとか、そんな嬉しい話だと思っていた。聡が婚約指輪を持って帰ってくる夢を、何度見たことか。しかし現実は、聡の薬指に指輪があっても、斎の薬指には指輪はない。それがどういうことなのか。四年の間に何があったのか。
「聡……帰ってきたのは嬉しいけど……ずっと聡の言葉を待っていた私の立場は、どうなっちゃうわけ?」
 涙が零れてきた。聡の前では気丈でいようと張り詰めていた気持ちが、今崩れた。体を丸めて涙を流す斎。聡が戻ってきた。それだけでいいではないか。そう思う反面、聡の大事な話を信じて待っていた自分が報われないこの現実は、あまりにも辛すぎるのではないのか、と考えてしまう。切り替わらない気持ちを抱いて、斎は泣きつかれて眠るまでそうしていた。

 ログハウスに戻り、琴菜が作っておいてくれた肉じゃがをご馳走になる。琴菜は先に食べていたとの事で、美味しそうに食べている聡をただただ無表情で見守っていた。
「琴菜、俺、幼馴染に会ってきたよ」
「そう」
 琴菜の表情は、相変わらず変化がしない。声の調子で判断するしかないが、それもどこか関心がなそうな韻であった。
「昔の事、あらかた教えてもらった。事件に巻き込まれたところは、必要ないとかで話してくれなかったけどさ。琴菜も、その事件の事は知っているんだろう?」
「えぇ」
 返事が端的である。聡としてはただ聞いただけなので、その答えでも十分だった。
「そこで相談なんだ」
 聡は座り直して、琴菜に向き合った。そして、頭を下げた。
「頼む、しばらくここに置いてくれ」
「自分の家に、帰らなくて大丈夫なの?」
「それはしばらくいいわ。幼馴染の話を聞いた感じでは、あまり歓迎されそうでもないしな。俺としては、このログハウスの方が都合がいいんだ」
 聡の戸籍は、今ここにある。しかし、その経緯を説明できないので、聡は琴菜にそのことは話さなかった。
「別に、頼む必要なんてない」
 琴菜は、立ち上がる。彼女の無表情は、さすがに聡を不安にさせた。
「私は聡に部屋を提供し、聡はこの家の家事を担当する。それで契約が成り立っているのだから、聡が改めて頼むことなんてない。聡はその事を違(たが)えなければ、ここにいていいのだから。最近私に気を遣って色々とやってくれているけど、私は聡にそれだけしか望んでいない。だから、無理はしないで」
 過労で倒れたことも含めて言っているのだろう。
「本当に心配をかけた。ごめん」
「もういいわ。明日からもよろしくね」
 斎が部屋に戻っていく。しかし、その途中でタンスの角に足をぶつける。さすがに表情が変わらない彼女でも、苦痛の表情は浮かべるようである。
「おいおい、大丈夫か」
「平気よ」
 心配そうにしている聡に、背を向ける琴菜はどこか意固地になっているように見えた。そのまま彼女は、足を引きずって部屋を出て行ったが、その先でまた何か物音がしていた。普段の琴菜からは、考えられないドジっぷり。
 琴菜は、表情に出ていないだけで相当動揺していたのだ。その事が、行動に現れていた。しかし、聡はそれを察することが出来ず、心配そうにしているだけであった。

 日が暮れた。分厚いカーテンから漏れていた光が消えたことで、彼女はそう判断した。日が暮れると、安心する。長い一日がやっと終わるからだ。このまま消灯時間まで、今日も何もせずゴロゴロするべきか。そんなことを考えていると、扉をノックする音が聞こえた。
「美香さん、入っていい?」
 隣の部屋の子だ。今日は、ゴロゴロしなくてもいい日になりそうである。彼女は、訪問者を招きいれた。
「ねぇねぇ聞いた? 今日の騒動」
 自分とあまり変わらない年の彼女は、話をしながらベッドに座る。
「看護師が気絶していたというあれのこと?」
「そうそう! なんでも入院患者の所に駆けつけようとしていたらしいね」
「その患者の名前、知っている?」
「えっ? 美香さん、知っているの?」
「偶然聞いちゃった。神山聡ていうの。ふふふ」
「なにその不気味な笑い」
「不気味て、幸せの笑みと言いなさいよ!」
 美香は、右の薬指につけているプラチナの指輪を見せた。
「この指輪をくれた人と同姓同名なの。そのこと思い出してね」
「同姓同名て、本人じゃなかったの?」
「顔までは確かめてないけど、あの人が私を追いかけてくるなんてありえないから。実際、もうあの人のところから離れて、二ヶ月。その間、連絡一つないもの。恨まれても、愛されることなんてないわ」
「でもその指輪、つけ続けているんだ」
「これは、私に課せられた業(カルマ)だから」
 美香は寂しそうに笑い、指輪の主を思い出していた。

 END

 次回のお話

 記憶喪失である事は変わらないが、過去を知識として得る事が出来た聡。彼が次に出会ったのは――。
「うぅ……?」
 表情どころか、言葉もまともに喋れない少女、赤咲夕音。そして――。
「ゆ、夕音が二人!?」
 夕音の親友である月野静流の前に現れた、もう一人の夕音。
 無害な夕音と有害な夕音。
 二人の夕音の謎を解くため、言葉を話せる有害な夕音を捕獲しなければならない。
 達人クラスの実力を有する有害な夕音を捕獲するため、橘椿を仲間に加えた聡と静流の『夕音捕獲作戦』が始まる。

 有害な夕音――杜若と名乗る彼女が話す真実とは。

 第四章『人形になった少女』へ続く

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中二日で夜勤に登板・・・とか、そんな話を勤務中に笑いながらしていた、堕天王です。 夜勤入り→明け→休み→遅出→夜勤入り→明け→休み→休み ...続きを見る
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2010/01/09 23:40
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空白ノ翼第三章『記憶に陰る赤』 第三話  堕天王の逝く道/BIGLOBEウェブリブログ
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